2015年6月29日月曜日

最後のニホンオオカミ:オオカミ(捕逸その2)


久しぶりに太陽が顔をのぞかせる天気だったので東吉野村までドライブにでかけていった。紀ノ川に流れ込む高見川に沿って小川と言う集落がありオオカミの等身大のブロンズ像がたっているのをみたかった。

ここで1905年に捕獲されたのがニホンオオカミ(剥製は大英博物館にある)の最後の確実 な記録で、これによって日本のオオカミは絶滅したとされている。


かつて、ニホンオオカミは日本列島(北海道はエゾオオカミ)で普通に棲息しており、日本列島の唯一の猛獣として生態系をたもつ役割を果たしてい た。しかしヒトと競合することも多く、その狩猟圧が高まるにつれて、ついに20世紀のはじめには絶滅に追いやられてしまったのである。だが、その結果はど うか。シカ、イノシシ、サルなどの跳梁に悩まされているのが現状である。

イエローストーンのオオカミの再導入のことを書いたとき「日本ではできないのでしょうか」という質問を受けた。確かにそんな話もあるにはある。しかし、広 大な面積のアメリカと人口凋密な日本とはそう簡単には比べられないだろう(オオカミの導入にはオランダ、ドイツ、イタリアなどでも議論が 始まっていると聞くが)。


昼食にアユの塩焼き定食をたべた店でのママさんとの会話:

「このアユおいしいですね」
「前の川で息子が『釣ってきたの」
「シカの害はないですか」
「大変なの、前の畑にいつも4,5匹の群れがやってきて畑を丸坊主にするの」
「オオカミがいたらいいのにね」
「こわいけど、それで人が来るならばねー」


(小山修三)

2015年6月28日日曜日

オオカミ(捕逸その1)


イェローストーンのオオカミ(出典 Wikipedia)
イェローストーンのオオカミ再導入の記事についていくつかの質問がありました。できるだけ数値をあげながら捕逸しておきます。

オオカミはかつてアメリカ全土に棲息していましたが、植民地化されると農業・牧畜が主産業になったので害獣として駆逐されて20世紀に入る頃には数が激減 していきました。1920年代にはイェローストーン国立公園とその近辺でもほとんど捕獲・殺戮の記録がなくなり絶滅種とみなされるようになりました。


しかし、1940年代になると、これで生態系のバランスが崩れた、再導入が必要だと言う声が、熱心な自然保護主義者たちからあがり、調査と検討が始められ ました。反対論も強かったのですが、イェローストーン国立公園では、9000km2=四国の約半分ちかい広大な地に人がほとんど住んでないという好条件も あって、1995年に再導入に踏み切ります。1995~97年にかけてカナダから連れてきた41頭のオオカミが放たれたのです。

図1
現在(2013)はそれが95頭に増え、10の群れになって、ほぼ、全域に住んでいます(図1)。群れにはナワバリがあり、広さは300~500km2。 餌は90%がヘラジカ、他にオオシカ、バイソン、シカもたべます。今のところ心配された人畜に対する害はなく、ジステンパーや狂犬病などの発症も見られず 一安心、むしろ観光の強力な魅力(よほどラッキーじゃないと出会わないのに)として欠かせないものになってきています。

イェローストンは普通もっと大きな「グレーターイェロストーン」地域(国有林など人口の少ないところ)としてとらえられており、そこでは約400頭、北 ロッキー山脈では1600頭まで増えていると推測されています。しかしそこにいるマウンテンライオン1万、クマ(ブラックベア)10万などと比べるとまだ 少ないといえるでしょう。なおオオカミはアリゾナ州のグランドキャニオンにもいるそうです。

(小山修三)


図1 出典 US Fish & Wildlife Service
http://www.fws.gov/…/figures/FINAL_Figure_3_GYA_03-10-10.pdf


こんな本を読みました: 五島淑子 2015『江戸の食に学ぶ 幕末長州藩の栄養事情』臨川書店 2100円+税



和食が理想の食として世界遺産に登録され注目を集めている。しかし、和食とは何かと問われると答えに窮する。老舗の料理店の高級料理か、今日の朝飯か、ス シは?天ぷらは?アンパンは?カレーライスは?ラーメンは?和食とは日本人が長い歴史のうちに作り上げてきたものだが、その基本が江戸時代にあることはわ かる、しかしそれはいったい何なのか。

和食が世界的に注目されたきっかけは、1977年のアメリカ上院特別委員会による「米国の食事目標」の報告で理想的な食としてとりあげられたことによる。 豊かな社会の食事が、動物性タンパク質、脂肪、砂糖などの過剰な摂取となり病気や健康弊害となっていると指摘されたのである。伝統的な和食は栄養的に十分 とはいえないのだが、それにもかかわらず現代食の恐ろしさへの警鐘となったのである。その弊害は今や日本にも及び、他人事とはいえなくなったのだから。

五島さんは若いころからみんぱくの共同研究に参加し、明治初期の食生活の栄養評価を行って食が人々の健康や病気にどう影響したかを考察する論文を書いて注 目された。その後、彼女はふるさとの山口大学に職を得て、天保時代(1840年頃)に書かれた『防長風土注進案』(刊本で全22巻という膨大な量)に取り 組んで和食の核となる江戸期の食生活の復原につとめてきた。

古文書をコンピューターをつかい数値化して処理するのは大変な作業である。江戸時代の人と現代の私たちの考えかたや表現法がちがうからだ。たとえば食品の 同定について魚介類を挙げると、一般名のほかに地方名のほかに誤字、あて字、造字までまじるので大変苦労する。また、量についても石や升という容量、貫や 斤など重さのほかに匹、連、束、代金などいろいろの表現がみられる。したがって、復原プロセスではどうしても仮定や推定を入れたシミュレーションが必要と なる。それでも先行論文(たとえば鬼頭 1983、小山ほか 1982)と大きく異ならない結果となっているのは、手法の正しさをしめしているといえるだ ろう。

それにしても、山口県という一地方の、天保年間という特定の時代の食品が網羅され、コンピューター化されて検索可能なデータベースとなったのはすごいこと だ。郷土食はこれからの地域おこしの重要な要素となるだろうし、今放送中の「花燃ゆ」のような時代劇の考証にも役立つはずだ。本書の主体となっているの は、そのデータベースを利用したアカデミックな分析だが、巻末にコラムとしてまとめられたエッセイには「食」の教育者として学生や市民とのふれあいの様子 がいきいきと書かれていて、なかには「モモタローが山口県で書かれたとしたら?」というような著者のお茶目な一面もうかがうことができる。山口県にはおお くの古文書や宮本常一さんに代表される豊富な民俗誌がある。つぎには、庶民の食生活を楽しむことのできる本の出ることを期待したい。

(小山修三)

■参考文献
鬼頭宏
1983 『日本二千年の人口史 : 経済学と歴史人類学から探る生活と行動のダイナミズム』PHP研究所
小山修三、松山利夫、秋道智彌、藤野淑子、杉田繁治
1982 「『斐太後風土記』による食糧資源の計量的研究」『国立民族学博物館研究報告』6(3):363-598

2015年6月27日土曜日

オオカミと山火事 ―イエローストーン国立公園で考えたこと


リジチョーは先月末、無事に米国より帰国いたしました。
イエローストーンの話を、縄文ファンに書いております。
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=7808



どうぞよろしく。(こぼら)

アメリカ鉄道の旅


かつてアメリカはイギリスと並ぶ鉄道大国だった。人や物資の輸送は、初めは馬だったが1830年に始まったとされる鉄道は急速な発達を遂げ、19世紀末には全米のネットワークがほぼ完成し全盛期を迎えている。

ところが、第二次大戦後は飛行機と車(道路)に取って代わられ劣勢になり、廃線があいつだ(しかし、それは旅客面だけで、物資の輸送としては依然として大きな役割をはたしている)。
それでも、車に関しては石油価の高騰や交通事情そして環境への影響などから車への過剰な依存が反省されて、都市部や中距離輸送についても、例えばサンフランシスコ~ロスアンジェルス間の「新幹線」建設が真剣に検討されているという。

長距離の旅についても絶望的というわけではない。それは、なによりも、アメリカ人の心には歴史に根ざした鉄道へのノスタルジアがあるからだと思う(じっさい、各地に鉄道博物館がある)。
アムトラックは1971年に、全国網として政府の肩入れでできたのだが、オイルショックなどもあって順調には伸びなかった。しかし、もともと寝台、食堂車などの基本設備は整っており、ゆったりしているので最近は持ち直しの兆候がみられるという。

汽車に乗ってオークランドからフレズノまで行った。約4時間の旅。JRの正確無比な運行ぶりとくらべアムトラックはのんびりしたものだ。途中の駅 で、「予定より5分早く着いたので止まります。足をストレッチしたい方は外 でどうぞ。タバコを吸いたい人は20フィーと離れて吸ってください」というアナウンスがあった(タバコにかんして好意的な声をきいたのはここだけだっ た)。

将来はもっとサービス面を充実させて、ゆったり、のんびりした大陸陸横断の鉄チャン用の旅が出来る日が来るかもしれないと感じた。


(小山修三)

2015年6月26日金曜日

アメリカで訪れた博物館


みしらぬ地を訪れたとき、博物館を利用すると、その地の歴史、産業、動物・植物、地形などの自然環境について要領よく知ることができ大変便利なので、よく利用する。またいいテーマがあると観光の目玉にもなる。今回行った博物館の幾つかを紹介しましょう。

1.ロッキー恐竜博物館@モンタナ州ボスマン
モンタナ州の東部には恐竜の化石が累積して広く出る地層があり、たくさんの種類の他に、卵から成獣までの恐竜の生涯をみせる意欲的な展示もあります。ここ の名物学芸員の Jackさんは映画ジュラッシクパークの博士のモデルになった人だそうです。もちろん子供達には大人気。
ロッキー恐竜博物館


2.エトワー・インデアンマウンド遺跡@ジョージア州アトランタ近郊
アメリカ南部の州からオハイオ、イリノイ州にかけてミシシッピー文化期(A.D700~1600)に大きなマウンドをつくった遺跡が分布している。エト ワー遺跡はその1つ、6基のマウンドが復元されている。1800年代から 何回も調査されているのだが発掘はマウンド付近にかぎられていて性格がまだよくわかっていない。神殿のような祭祀的性格が強いとおもわれる。平日 のこととて人影はまばら。アメリカ考古学は先住民と植民者の子孫で歴史が分かれており、現在その見直しが進められている。

エトワー・インデアンマウンド遺跡
3.キッズミュージアム@アトランタ市
 子供の同伴者しか大人はだめと入場を断られた。

4.コカコーラ博物館@アトランタ市
みんぱくがはじまったころ、同僚の栗田氏が世界唯一の黒字の博物館というので一緒に熱心に調べたことがある。コカコーラの歴史、世界で作られているコカコーラ(製品)を自由に飲むことができる。庶民文化のつよさを感じた。今人気のラーメン博物館のことを思い出した。

コカコーラ博物館

世界中のコーラ類試飲コーナー

(小山修三)

街にとけこむ日本料理



アトランタは今回初めて訪れる場所。保守的な南部にあるので、生魚を食べるスシには抵抗感があって一般化してないだろうと予想していた。まず、ダウンタウ ンを見て歩いたが、中華レストランに「スシもあります」と出ている程度だった。この街はオリンピック以来大胆な建て替えを進めているのだが、中心となるべ きダウンタウンは「歴史景観」を残しながら再建するという観光的な意味合いでは失敗して、貧民街の雰囲気だけが残ったようだ。

友人が「わたしの働いているビジネス街にはいい寿司屋がいくつもあるからそこへ連れて行きましょう」というので出かけて行った。イタリア、メキシコ、アメ リカ料理などの瀟洒な店が並ぶ一角があった。きんきらの中華店はなく、現在のアメリカの普通の街の一角と感じで、すし屋もとくに日本食であることを強調し ていない。顧客も平然と箸を使いスシをつまんでいる。すでに日本車については述べたように、コンパクトで経済的な日本文化の合理性がモノや行動という形で アメリカ社会に素直に受け入れられていることに一種の感慨を覚えた。

アトランタの鮨屋TOMO-毎日築地から魚を空輸する高級店
(小山修三)

2015年6月25日木曜日

ケープ・コッド: 人工な的自然?



ケープ・コッド(鱈の岬という意味)はボストンからバスで二時間あまり、気候がよく、景観と歴史遺跡(メイフラワー号が最初に上陸したプリマスはとなりま ち)に恵まれた高級住宅地であると同時に観光地でもあることは東京にたいする鎌倉との関係に似ている。この地の自然は素晴らしい。引退して悠々自適の生活 を送る友人の家は湖畔にあり、ベランダで地ビールを飲みながら芽吹きはじめた対岸の落葉樹の林を眺めているのはなかなかいい気持ちだ。

彼の散歩コースの近所には、電信柱状にたてたミサゴの巣、ニシン(herring)が産卵に来る魚道、季節になると巣づくりにくるsand piper(?)、目を見張るものがいっぱいだ。それらはみんな市の条例によって厳しく規制されていて手を出すことができない。市民が支えている自然なの だ。
ところが一方で、おおきな観光地下の波が押し寄せている。主な道路に面してホテルやロッジがたちならび、レストラン、土産物屋がひしめいている。大ショッ ピングの計画が持ち上がり、ギリギリのところで議会で否決したという話を聞いた。しかし、観光は街の未来にとって欠かすことのできない問題なのだ。

しかし変な施設をむやみにつくるよりは規制をかけても守ることが重要だとおもう。つまり、ケープ・コッドの自然とは、ある意味で人がつくっていく自然であ りイェローストーンのあのザラザラした肌触りの自然とは全く違うものだ。それでも、これからの自然はこうして守っていかねばならないのかもしれない。

(小山修三)

米国ノースカロライナ州クロスノア訪問


今回のアメリカ旅行の目的の一つは、去年11月末に亡くなった私の考古学の恩師、Dr. Kidderのお墓まいりをすることだった。北はカナダ南東部から始まるアパラチア山脈の南端に位置する人口二百名あまりの小さな村、雪深いところなの で、初春の4月にメモリアルサービスが行われたが、所用でそれには出かけられなかった。代わりに先生の息子さんの一人が住むジョージア州アトランタからサ ウスカロライナ州を通りノースカロライナ州のクロスノアまで5時間のドライブをしての墓参となった。

芽吹いてまもないあざやかな緑の林の中の墓地、2年前に亡くなった奥様の脇に埋葬されていたが、墓石は来月できるとかで、目じるしの菊の造花がしつらえて あった。教会の横のスロープに散らばる墓石のほとんどはDellinger家・Sloop家など奥様の親戚縁者の名前が彫られ、その前で別のところから駆 けつけてくれたもう一人の息子さんたちと昔話で盛り上がった。先生には男の子が4人、みな日本(といってもアメリカンスクール)育ち、子供のころからの長 い付き合いで、時々まじる日本語はなまりのない日本人のような発音、気がついたら1時間以上立ち話をしていた。
日曜日には私としては珍しくシャツにジャケットを着て礼拝に出席、よく来てくれたとみなさんから握手をもとめられ気恥ずかしかった。賛美歌は「聖しこの夜」しか知らないのでずっと黙って立っていたのだけど。

(小山修三)

イェローストーン 蘇る森

1988年の山火事は熾烈なものでイェローストーンの森は回復不可能と考えられたほどだった。しかし、あれから四半世紀(25年)、森は 感動的といえるほど回復している。焼け残った松(ロッジポール・パイン)の林のくすんだ緑を取り囲むように若々しく鮮やかな緑が対照的である。そして、そ こに住む動物たちのあり方も変わっていったのだから、そのダイナミックな姿はしっかりして美しい。「自然をなめちゃいけないよ」という声 がきこえてきた。

(小山修三)

山火事の森の再生

森の再生を示す看板

2015年6月24日水曜日

イエローストーン公園のミサゴ

「イエローストーンのグランドキャニオン」というおまけがついたような名の場所があった。遠くに滝が見え、絶壁になって谷が切れ込んでいる。

谷の淵をめぐるトレイルに望遠レンズをつけたカメラを備え付け、鳥や動物のすがたをとろうと待機している一団がたむろしていた。三脚に据えたカメラを覗かせて もらうと(もちろん私のデジカメでは力不足)、立木のように独立してそそり立たつ岩にあやうくのっかるように、木の枝を編んだような鳥の巣があった (もちろん私のデジカメは力不足)。

そこへ、すっと垂直におりてきたのがミサゴ、英語でオスプレイ。あの評判の悪い軍用機はこの名をとったのだと わかった。

(小山修三)

写真:ミサゴの巣がある滝
滝が流れ落ちる渓谷の岩の上にミサゴが巣をかけていた。望遠レンズをつけた人が何人か巣を観察