2014年2月6日木曜日

日本考古学の変容


125日(土)に金沢大学の国際資源研究センターの公開セミナー「歴史復原画と考古学」http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/20131203.htmlに参加して、日本の考古学が大きく変わりつつあることを実感しました。

http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/img/20140125_ccrs_seminar_2.pdf
もともと考古学は遺跡や出土物を研究する、専門家だけのものでした。しかし第二次大戦後、「新しい歴史」を作り上げる必要に迫られた政府は、登呂遺跡(弥生時代)や大湯環状列石(縄文時代)などの発掘 をおこない、小中学生までが参加するようになりました。それをマスコミが書きたてたために一般人も盛りあがりました。その後、文化財保護 法がつくられ、遺跡が破壊されるときは主体者が調査をすることが義務付けられました。それによって日本は世界有数の発掘大国になりました。経済成長による大規模な土地開発はほとんどが県や市町村などの地方行政が費用を負担して発掘にあたることになったのです。

 このような、日本の考古学の現場は今どうなっているのか。まず政府は日本という国の「正史」として確立しておきたい。アイヌ、沖縄、在日コリアンなどのアイデンティをはじめ、北方領土、尖閣、竹島の国境問題など掘り起こせばいろいろあるのですが、それでも比較的単純なかたちにまとめられ ています。これはアメリカを始めとする、世界の国が多民族、多文化という性格をもつゆえに深刻な問題となっているのとは対照的だといえるでしょう。次に地方政府のかかわりかたです。遺跡が(多大の費用をかけて)発掘されたあとどう保存・管理・運営すればいいのか。普通は公園にして、そこに公民館とか博物館を作って住民の文化・福祉のために役立てようとしています。それをより積極的に考えれば、遺跡を観光のキャッチにして地域おこしを目指すこともできます。地域おこしは住民の願いでもあるのですから。

金沢大学の「資源センター」はそのような絡みに注目して、考古学者、(国、県、市町村)行政、および住民との関係を文化人類学的に解き明かそうと努力しているようです。この点では九大の溝口さんなどがパブリック・アーケオロジー(public archeology)というキャッチで同じ問題に迫ろうとしていることとも連動しているとおもいます。

私は誰もが楽しめる考古学であってほしいと考え、1980年代の初めから、縄文時代の人々の生活を絵画や実際の服装で表すことを、服装学の松本 敏子先生や、アーテイストの安芸早穂子さんとさかいひろこさんとコラボしながら岐阜県高山市久々野町、福井県鳥浜遺跡、三内丸山遺跡などでやって きました。この公開セミナーではその経過を報告しました。


(小山修三)

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