2014年2月27日木曜日

『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』(その2)

 『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』(その2)

ウルシは外来の栽培植物か?


本書で新しく目を開かれたものとしてマメ類栽培のほかにウルシがある。縄文人の植物とのかかわりについて、私が食料に偏していたのは、食いしん坊のせいもあるが、基本的には人口との関係に興味があったからだ。しかし、漆についてはずっと気にはなっていた。若い頃読んだ岩波新書の松田権六『うるしの話』1964が強く印象に残っている。松田さんは人間国宝となった漆芸家で、漆について栽培、樹液の採集、塗料としての特性、素材と塗り方などを実作者の視点からエピソードもまじえながら(ウルシの実はコーヒーに轢くとうまいそうだ)日本の漆芸の多様さと技術レベルの高さについて述べたものである。

松田さんは、日本でも石器時代(縄文~弥生)から漆が接着剤や塗料として使われていたことにも触れているが、この時点での考古学はまだ時代観が曖昧で、例数も少なかったために2ページ位しか割かれていない。したがって、日本漆芸のルーツは中国にあることは当時の常識であったし、彼が漢の植民地だった楽浪郡(平壌市の近くにあった)の古墳で発見された遺物の調査・復原にあたった自らの経験にも影響されていると思う。

日本の考古学は1950年代からの経済発展にともなう土地開発の激化によって活況をきたした。文化財保護法によって工事に伴う大規模な発掘が全国的に行われるようになって多くの情報が蓄積されていったからだ。縄文時代に漆製品のあったことはすでに知られていたが、時代はもっとさかのぼること、分布は西日本にもおよんでいることがわかり、漆の使用が全国的でありシステム化されていたことが明らかになった。

さらに大きな展開が見られたのは1975年、福井県鳥貝塚の縄文前期の層(6000年前)から鮮やかな赤色の櫛が発掘されたことによる。付け加えれば2002年には函館市垣ノ島B遺跡から出土した漆製品がC14年代によって 9000年前のものとされている。その古さには戸惑うばかり、ウルシは大陸から来たという想定は年代的に逆転してしまった。私も河母渡遺跡まで出かけていったが、7600年前とされる漆塗りの器は縄文のものと比べると粗雑な感じだった。

本書でウルシの項を担当した鈴木三男さんは木材鑑定の専門家だがウルシについての基本的な問題に挑んでいる。一つは、野性のウルシが日本でみつからないので、中国から持ち込まれたのではないかと言う。そこで、鳥浜貝塚の古い資料と格闘した結果、草創期(12600年前)のものであることを証明した。(これに対する文化的な説明も苦しいものがある)。

もう一つはウルシがクリとともに、クイや薪の用材として盛んに使われていたことである。カブレなかったのかと心配だが、両者とも明るい土地を好むので、そのための手入れが必要だったという。集落の周りに明るくひらけた空間を作り、クリ、ウルシのほかアサやヒョウタンなどの有用植物を育てながら生活した縄文人のムラの景観が見えてくる。

(小山修三)

2014年2月21日金曜日

小山センセイの縄文徒然草 新記事アップ!

小山センセイの縄文徒然草、第32回は

「女性と服装」

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=6884

すっかりベトナム贔屓になっているキューカンチョーです。どうぞよろしく。

2014年2月19日水曜日

こんな本を読みました: 『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』


工藤雄一郎・国立歴史民俗博物館編 2014

『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』

 

ひさしぶりに、読んでコーフンした本だった。もちろん内容がそうなのだが、縄文人の植物との対応の問題に長らくかかわってきた研究者としてさまざまな人や出来事がおもいうかぶからである。
 
私が考古学を学び始めた頃は、縄文時代とは狩猟採集の段階で、米や野菜などは弥生時代に大陸から伝わったというのが定説だった。ところが、最近の発掘や分析技術の発達によってそんな常識は覆されてしまった。縄文人の植物利用の解明に力を注いでいる(これまでの土器や石器だけではなく、顕微鏡を通して見る微細な自然遺物を扱う)若い研究者の数が増え、その成果が一般書の形で出はじめたからである。(ほかには、小杉康ほか2009『縄文時代の考古学3』同成社)
 

縄文人が作ったダイズとアズキ

食用植物としてはコメ、クリ、マメが論じられているが、そのなかで驚いたのはマメ類についての報告だった。従来、マメ類については考古学的な同定が進んでいなかった。私自身にも苦い経験がある、1979年のAffluent Foragers(採集民の成熟)のシンポジウムをまとめるとき、当時福井県鳥浜遺跡で(日本で初めて)発見されたマメを日本ではリョクトウと同定していたが、それについて、共編者のトマス氏から「そんなはずはない、あれはインドあたりのもの」というクレームが来た。こちらは専門家じゃないし、ドタバタした後なんとかごまかしたのだが、こちらの負けかなという気がしていた。もう一つあげれば、丹波黒豆の話をしていた時「身の黒い大豆は大陸ではみないんだよね」といった専門家の言葉だった。
最近の成果はそのあたりのモヤモヤを見事に解明した。決め手となったのは圧痕レプリカ法、土器面に着いた圧痕にシリコンを詰めて「かたち」を取り出す方法である。これによって、マメの構造(臍、縫線、縦溝)が明らかにされ、例数も飛躍的に増えた。その結果、はじめ中部日本で野生種として利用していたツルマメ(ダイズ)とケツルアズキ(アズキ)を4500年前(縄文中期)から栽培種として育てるようになり、それが西日本に広がったことを明らかにしたのである。しかも、栽培化の動きは中国や韓半島でもほぼ同時に起こっていることも興味深い。
 

栽培植物と農耕コンプレックス

豆類はタンパク源として重要ではあるが主食とはならない。デンプン質の穀類や繊維、ビタミン類の野菜と組み合わせ育てられのが(コンプレックス)のが農耕としてのあるべき姿だろう。日本産にこだわるならば穀類としては、ヒエがある(北海道、東北地方が中心というズレがあるが)。また、野菜の候補としてエゴマがあり、ダイコンやカブなど菜種類(Brassikka)もあるが、例が少なくまだ明らかにされていない。これらについては、本書ではあまり触れられていないが、将来、縄文農耕に対する理解が深まるにつれて、是非考えるべき問題となるであろう。
 
(小山修三)
 

2014年2月6日木曜日

日本考古学の変容


125日(土)に金沢大学の国際資源研究センターの公開セミナー「歴史復原画と考古学」http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/20131203.htmlに参加して、日本の考古学が大きく変わりつつあることを実感しました。

http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/img/20140125_ccrs_seminar_2.pdf
もともと考古学は遺跡や出土物を研究する、専門家だけのものでした。しかし第二次大戦後、「新しい歴史」を作り上げる必要に迫られた政府は、登呂遺跡(弥生時代)や大湯環状列石(縄文時代)などの発掘 をおこない、小中学生までが参加するようになりました。それをマスコミが書きたてたために一般人も盛りあがりました。その後、文化財保護 法がつくられ、遺跡が破壊されるときは主体者が調査をすることが義務付けられました。それによって日本は世界有数の発掘大国になりました。経済成長による大規模な土地開発はほとんどが県や市町村などの地方行政が費用を負担して発掘にあたることになったのです。

 このような、日本の考古学の現場は今どうなっているのか。まず政府は日本という国の「正史」として確立しておきたい。アイヌ、沖縄、在日コリアンなどのアイデンティをはじめ、北方領土、尖閣、竹島の国境問題など掘り起こせばいろいろあるのですが、それでも比較的単純なかたちにまとめられ ています。これはアメリカを始めとする、世界の国が多民族、多文化という性格をもつゆえに深刻な問題となっているのとは対照的だといえるでしょう。次に地方政府のかかわりかたです。遺跡が(多大の費用をかけて)発掘されたあとどう保存・管理・運営すればいいのか。普通は公園にして、そこに公民館とか博物館を作って住民の文化・福祉のために役立てようとしています。それをより積極的に考えれば、遺跡を観光のキャッチにして地域おこしを目指すこともできます。地域おこしは住民の願いでもあるのですから。

金沢大学の「資源センター」はそのような絡みに注目して、考古学者、(国、県、市町村)行政、および住民との関係を文化人類学的に解き明かそうと努力しているようです。この点では九大の溝口さんなどがパブリック・アーケオロジー(public archeology)というキャッチで同じ問題に迫ろうとしていることとも連動しているとおもいます。

私は誰もが楽しめる考古学であってほしいと考え、1980年代の初めから、縄文時代の人々の生活を絵画や実際の服装で表すことを、服装学の松本 敏子先生や、アーテイストの安芸早穂子さんとさかいひろこさんとコラボしながら岐阜県高山市久々野町、福井県鳥浜遺跡、三内丸山遺跡などでやって きました。この公開セミナーではその経過を報告しました。


(小山修三)