2016年12月29日木曜日

こんな本を読みました: 吉良文男 2016『茶碗と日本人』 飛鳥新社


茶碗で飯を食い、湯呑で茶を飲むとは、こわいかに?こんなシンプルな疑問からはじめて、吉良さんは茶碗を道しるべに日本人の美意識という混沌とした世界に案内する。在野の研究者と本人が言うように、アカデミックにかたまっていないことがかえって読者の想像力を刺激する。
まず茶道について。わたしも時に茶会に招かれることがあるが、「作法が・・」と断ると、「自然体で茶を楽しめばよいのです」と言われる。ところが、行ってみると、座り方、器の扱い、飲み方、お菓子の食べ方まで、しっかり決まっていて居心地の悪いことおびただしい。夏目漱石が因循姑息と切って捨てたことが「西洋かぶれ」の後輩としてよくわかる。
そして茶碗。ふつうの美術史では作品のサイズ、色、素材、産地などに明快な基準を置くが、一見もっさりした茶碗はその枠を大きくはみ出している。
 
日本は12世紀ころから政治の主体者が貴族から武士=農民の社会へと移っていった。下剋上といわれる混乱した過渡期(鎌倉、室町、戦国時代)には、倭寇の記録が示すように朝鮮半島から南中国を中心に東アジアの海域にまで進出していった。旧い政治理念と形態(律令制)が崩壊して封建制(大陸には現れなかった)をうち
たてて、ふたたび統一されるのは信長、秀吉によってだった。茶道が確立するのはまさにこの安土桃山時代であった。新興の支配者たちを支えたのは、市場を海外にひろげてすごい経済力をもつ商人だったことは、堺や博多に拠点を持つ千利休とその仲間だったことからよくわかる。

茶碗に私たちが惹かれるのはなぜだろう。欠けたり、ひび割れた茶碗、大量生産の輸入雑器とまだ洗練には遠かった日本製の陶器をことさらにとりあげ、高い価値をつけた。その基本理念であった「全きものはよからず」という言葉は、中国至上主義の旧体制を否定し、新しい社会のあり方をめざすプロパガンダだったのである。

同時代の宣教師がなぜこんなものが日本では千金の価値を持つのか不思議がったそうだ。その謎をときには文化人類学者の意見が有効である。1つは、たとえばオセアニアの巨大な石貨である。それを持つことは所持者の権威と豊かさをしめすという経済観。モノの価値は数字だけでは決まらない何かがあるのである。もう1つは、それぞれの民族には独自の美意識があること。吉良さんは福井勝義さんが指摘したアフリカの牧畜民ボディ族がもつ牛の毛の模様と色に対する認識が参考になると述べている。文化にはそれぞれ異なる価値観があり、それは他者には容易には理解できないものである。

日本の現代人は西洋文化の枠に縛られすぎているのではないか。吉良さんはかつてゴッホやピカソが素晴らしいと思っていたらしいが、そのうち見るのが息苦しなってきて今では素朴な手捏ねの茶碗に心安らぐようになったと言う。もっとも、文化枠を超えて通じる美というのがあるのかもしれない。司馬遼太郎さんはそれが文明だといった。これまでの茶器研究者の努力の積み重ねはようやく茶器をその域にまで上げて来たといえるのかもしれない。
天目は中国産だが世界に3つしかなかった。耀変は中国では雑器だと考えられていたのだろうか。

(小山 修三)

2016年12月25日日曜日

ゴハンのおいしい町、観音寺


年の瀬はパーティのシーズン。先週は梅田で乙部順子さんの『小松左京さんと日本沈没 秘書物語』の出版を祝う会がありました。そこにいた小松さんのお孫さんの話。

「運転免許をとりました、香川県カンオンジ市で」。目がテンになったのは、ここ数年私が「観音寺市ふるさと応援大使」をやっているから。

「なんで?」と聞いたら、「最近、2週間ほどの集中合宿をして、運転免許を取るのが流行っているんです。ネットで探したていたら‘ゴハンがおいしいまち’とあったので」と言うのです。今は、地方創生の時代、あらゆる魅力を掘り出して、町おこしにやっきになっています。しかし、香川県ならウドンでわかるけど、ゴハンとは。

むかし、「小松さんを講演に呼んでほしい」と市役所にたのまれ、説得に大変苦労したことをおもいだしました。「きみのおじいさんを呼ぶのはたいへんだったのよ。それなのに、呼びもしないのに、若い女の子が来るとはねー。つぎはおむこさんをさがしてみて」と言いました。
毎日の食がおいしいこと、それが基本で大切であることを考えさせられました。

(小山 修三)

2016年12月14日水曜日

飛騨ネギ


年末になると飛騨の居酒屋さんがヒダ葱をおくってくれます。ぶっとくて食べごたえがあるし、いいのはスーパぐらいではみつかりません。知人にも分けて、焼いたり、グラタンにしたりいろいろ楽しんでいます。ネギはよく食べるのですが、もったいなくてうどんの薬味とかにはしない。薬味は関西では青い部分、関東では白い部分とちがうんですねー。

NHKの「ためしてガッテン」でネギの特集をやってました。昔から、そして世界中で、薬をはじめいろいろつかわれているのですねー。うーん懐が深い。明日はスーパーに行ったらないのではないかと心配です。

(小山 修三)

2016年12月9日金曜日

ふるさとの味、日本酒


ふるさとがなんでこんなに気になるのかよくわからない。記憶の底にあるからだろうか。

今、「季刊民族学」の特集で日本酒をやっているので、ふるさとの酒を思い出した。昔は、私の町観音寺とその周辺(香川県三豊郡)には8軒もの酒造所があったが(ウチもそうだったのだが)、今では川鶴酒造1つしか残っていない。コメが素材なので戦時中から統制が厳しくなり、その後はビールなど洋酒に押されて全国的に酒屋は厳しい道を歩んできたからである。

それでも川鶴さんは頑張っていて、最近の地酒ブームにのっているのは立派だ。フェイスブックを見ると、若い女性の杜氏が張り切ってやっているのだが、横から見るとハラハラもの。なんとか最後の絞りまでこぎつけた、よくできたと社長さんが涙した、とあった。

飲みたくなってと注文した。たまたま、うどんとダイダイを友達から送ってきたので酒肴讃岐尽くしになり満足した。

というわけで今晩も酒盛り。おかずはアジの干物とつけもの。これがあのころの肴、だったのかと思うんだけど。といってるうちにまたのみすぎみたい。酒に弱くなったもんだ。

(小山 修三)

2016年11月9日水曜日

見ないで楽しむ美術館:兵庫県立美術館の試み

アイマスクで目隠しされて会場に入る。一本の細いロープに導かれてそろそろと歩いて作品に至る。録音機のボタンを押すと解説がながれ、指示に従ってさわっていく。上から、丸い突起はあたまです、ギザギザしてるのは髪ですね。もう1つ左にあるのはなんでしょう、赤ちゃんかな。それから下へ、ツルツルした広い面は背中と胸、前の2つの突起が乳房です。どっしりした下半身、全体がざらざらしてるのは衣装を着けているからでしょう。その間7分。全体として3つの作品があるから、全体として約30分、終わるとどっと疲れを感じるほどだ。普通の目で見る印象とくらべると、重なる部分とそうでない部分に分かれるが、後者はふつうの人が感じなかったことである。
兵庫県立美術館で開催されていた特別展「つなぐ、つつむ、つかむ 無視覚流鑑賞の極意」の最終日は11月6日(日)だった。広瀬さんがぜひ来てよ、といったのはこの企画にしっかりした手ごたえを感じたからだろう。準備は大変だったことはわかるけど館員も大喜びだった。大勢の方に来ていただけました、今日も予約がいっぱいなんです。
広瀬さんは問題点として「時間がかかりすぎるので大入りは期待できない、大人数の団体も無理」なところが問題だという。
また、展示物宝物主義の従来の美術館ではさわることは厳禁である。確かに頭、背胸には摩滅の跡がありてかてかしている。でもほとんどの作品はさわるなという意識はなかったはずだ。露天に置かれた雨ざらしのものも多いし。それにブロンズ像なら鋳直しも可能だろう。そして最近の3D技術の発達により、精巧な複製もつくることができる。美術鑑賞とは何かを改めて考えてしまった、そしてこの企画は新しい鑑賞法を示していると思った。


兵庫県立博物館「収蔵品による小企画展:美術の中のかたち-手で見る造形

2016年9月26日月曜日

地方再生は可能か― これからの三豊・観音寺 ―


1.人口減少の時代
 『地方消滅』(増田寛也 二〇一四年 中公新書)のインパクトは大きかった。日本の人口は二〇〇八年をピークに減少をはじめ、二〇四〇年には一億人を切り、現在の半数ちかい八九六の市町村が消滅するという。また、人口が東京に一極化(札幌、名古屋、大阪などの大都市もある程度)しているのも問題である。これに基づいて、政府は「一億総活躍」の政策を打ち出し、全国の市町村もそれにならっている。たしかに、今の日本には老人が増え、子供の数が減り、商店街が寂れ、限界集落が生じ、放置された田畑や森林などの自然景観も変わってきている。ふるさとが消えてしまうという恐怖感が伝わってくる。

2.適切な人口数と分布とは
 日本列島の人口は、狩猟採集段階の縄文時代は約二六万人だったが、稲作農業が始まった弥生時代からぐんぐん伸びて、平安時代には一〇〇〇万人、江戸時代には三〇〇〇万人を超えた。さらに、近代化がすすんだ明治時代には五〇〇〇万人、一億人を超えたのは昭和五〇年だった。(鬼頭 宏 二〇〇〇年 『人口から読む日本の歴史』講談社)。地産地消を言うならば、江戸中期の三五〇〇万人位(現在の三分の一)が適正値だと仮定するのはどうだろう。人口密度としてはフランスと同じくらいになる。
 分布の一極化については、明治以来の近代化に伴って政治・経済の中心が藩から東京へと中央集権化されたことが大きい。主産業が農業から工業へと転換し、経済システムが全国化、さらにはグローバル化したという時代の流れがあった。それを乗り切った日本人の「すべてに経済が優先する」という志向については、考え直す必要がある。スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国の生活がモデルになるのではなかろうか。

3.香川県の現状:出産可能な若年女性と人口
 理想論を言っても仕方ないので、ふるさとに話題を絞ってみよう。『地方消滅』の巻末には、全国の市区町村別の将来推計人口表がある。二〇一〇年を基に二〇四〇年を推計したもので、「総人口が一万人未満となり、若年女性(二〇~三九歳)の減少率の高い自治体が消滅可能性都市」として表されている。北海道、東北、南近畿、南四国、中部九州などはマックロで心配だが、香川県は、土庄、小豆島、直島、琴平がそれにあたる。ところが、宇多津、丸亀を除けば、高松も含めて四〇パーセント以上の女性減少率であり、いわば灰色なのである。観音寺市の若年女性減少率は約五〇パーセント、総人口は六・二万人から四・二万人に減少、三豊市は同じく約四八パーセント減少で、総人口は六・八万から四・六万に減少とある。市役所躍起となるのは当然である。

4.観音寺第一高等学校の卒業生の進路
 このような状態に至ったのはなぜか時代を担ってきた観一卒業生の動態を検討してみたい。観一は地域のエリートを育て、さらに優秀なものを都に送り出す装置で、その伝統は三豊中学から引き継いでいる。最近の同窓会名簿(二〇一六年版)を見ると、第一回卒業生は昭和二五(一九五〇)年、そこから一〇年ごとに現住所をしらべてみた。現住所が活躍した場所を示すと考えた。雑音が多くベストな資料とは言えないが、感じはよくわかる。
 第一回(一九五〇年卒)は、戦後経済がなんとか上向きはじめた時期だった。それでも、都会はまだ治安や食事情が悪かったためか、香川県のセンターだった高松に出た人が目立つ。
 ところが、第一〇回(一九六〇年卒)になると京阪神・東京への進出率が三〇パーセント近くに跳ね上がる。私は第八回なので、かろうじてこの範疇に入るが、まだ、格差が残る貧しいクニを出るより仕方がないという想いも残っていた。しかし、その後の高度成長期の都会の吸引力はすざましく、大量の卒業生が都会に移っていったのである。
 ところが、七〇年になると一四パーセント、八〇年一〇パーセント、九〇年と二〇〇〇年は四パーセント前後と、京阪神・東京にる数は減少していく。この現象をどう見るのか。観一の力が落ちた(たとえば、東大合格者が少なくなった)という人もあるが、都会で「しんどい」いをするより、四国で十分という状態に至る、言い換えれば、地方も充実してきたとえるだろう。後輩たちはそれを敏感に察知して、時代を先取りしていたのかもしれない。

5.ふるさと観光大使
 いま観光が注目されている。人口を増やすためには「移民を受け入れる」という方法もあるが、その効果は劇薬に似て、大きな社会混乱を招くことは欧米のニュースで見る通りである。だから、地方に活気を取り戻し、若い女性を増やし出産率をげて人口回復を目指すという、穏健な策をとることにしたのだろう。まだ日本には余裕があると言えるのかもしれない。
 三年前に、「ふるさと観光大使」になってしいという依頼を観音寺市役所からけた。もっと若い人がと思ったのだが、これまで考古学や文化財保護についてマスコミで発言していることや、「外からの目」も必要かと思って承諾した。名刺を一箱頂いたが、あとはボランテイアということであった。
 観光とえば、もともと観音寺はそれでもってきたという歴史がある。かんおんじ港は、三豊平野のセンターとして、『兵庫北関入船納帳』に見るように、室町時代には相当な力をけていた。江戸時代には、四国八十八ケ所巡りやこんぴら参りの要所でもあった。花街もあった。しかし、現在、何が「キャッチ」かというと、悩ましいものがある。うどん? ちくわ? いりこ? かんとだき?   にくてん? あんぞうに? 私たちには十分だけど、と重なるものも多く「看板」としてはどれもイマイチである。砂絵や、瀬戸内国際芸術祭が伊吹島で行われることは、全国版になるのかもしれないが。
 は親類や友人が多いのでクニによく帰るが、最近のマチの変化は著しい。核家族化がすすみ、車社会になり、生活範囲が広がっている。建物も一新されつつある。個人商店がめっきり少なくなったのは、ちょっと淋しい。それでも、いろいろと思い出がよみがえる。いい思い出だけではないはずなのに、すべてが理想化されて美しいのは、クニを失った(住むとのかなわなかった)デアスポラ的な想いなのだろう。

6.新しい社会の在り方
 今は情報の時代である。はインターネットに注目している。国立民族学博物館・友の会のリサーチ用にフェイスブックを開いているが、その対象者のに観音寺グループがある。あいもかわらず、うどんの書きこみが多いのだが、もちろん、子供や女性のための活動、文化講座の開催、イベント創り、酒造り、それに居酒屋の若者の活動ぶりなど、様々なアイデアや活動が書き込まれていて頼もしく、熱気がある。
 もうひとつは、アメリカの友人の意見が聞けたことである。「四国に行きたい(祖谷の外人が古民家を改造してった民宿が、インターネットで海外に知れ渡っているらしい)、ついでに『お前のふるさと』にきたいというのだ。そこで、川鶴の酒蔵と山並み芸術祭を開催中だった大野原に行くことにした。「えー、何にもないよー」と心配していたのだが、アメリカ人は大感激した。これまでの観光旅行では見られなかった家族、友人、自然の中で生きている姿が心を打ったというのである。インバウンド客までふくめて、観光というものの核心はここにあるのだと思った。
 ふるさと創生は庶民の力によるしかないと信じている。この人口減少化時代にマッチした新しいビジョンを抱き、誇りをもって快適に生きること、それが肝要なのだから

(小山 修三)

この文章は、『巨(きょごう)』第20号 [観音寺第一高等学校同窓会 京阪神支部 平成27年度支部会報]、pp.167-171に掲載されたものを再録しました。

2016年9月21日水曜日

奈良の寝倒れ


昨日の日中は台風の激しい雨でした。このあたりは、幸い大きな被害はなかったようですが、外にも出られずベッド本を読んでたら、ぐっすり寝入ってしまった。実は、この昼夜逆転現象は今夏の厳しい暑さのせいです。昼間に冷房をつけて寝てしまうくせがついたのです。ところが『季刊民族学』157号で、信州の山特集をやったために、何度も長野県にでかけたので大変でした。

信州の仕事では祖父江孝夫先生の「県民性」の研究が役立ちました。薩摩の大提灯、信濃の小提灯、信州人は理屈っぽく独立独歩的だが、最後には「信濃の国」の歌を唄ってまとまる、という笑い話(実話だそうです)が当たってるなーと感じました。もちろん類型化は危険ですが、それでも鋭くポイントついている。

県民性と言えば、奈良には「寝倒れ」というのがあります。「京の着倒れ」、「大阪の食い倒れ」に対応するもので、温和な気候、豊かな経済にめぐまれているために、進取の気象に乏しいということだそうです。わたしは讃岐人で、(祖父江さんの分類では)機敏で、へらこいはずですが、奈良に住むようになって20年以上になると、上品でのんびりした人と化してしまったのかなー、それともだだの老化かしら寄る年波のせいかなーと、今も寝不足でぼんやりした頭で考えています。

(小山 修三)

2016年9月3日土曜日

【こんな本を読みました

広瀬浩二郎編著 2016 

『ひとが優しい博物館―ユニバーサル・ミュージアムの新展開』

青弓社 ¥2000円+税】



本書は昨年(2015)11月に民博で行われた公開シンポジウムをまとめたものである。ユニバーサル・ミュージアム研究会 の報告書としては『さわって楽しむ博物館』2012につぎ第二冊目となる。本書の終章でこの研究会のあゆみを紹介しているが、私が吹田市の博物館にいたこ ろ、硬直化している日本の博物館のあり方を正さなければ「博物館は滅ぶ」と考え広瀬さんに相談を持ちかけたことから始まった。今でも、博物館や美術館に とって「さわる」ことはタブーに近いのだが、関心を持つ若手研究者が意外に多く、マスコミをはじめ一般の関心も高いので回を重ねるごとに参加者が増えて いったのである。次にシンポジウムをやるときは民博の演習室では間に合わないので、講堂でやらねばと話し合っているほどだ。

本書の内容 は、美術館の多様なプログラムの現在、大学での実習や実践のありかた、各地の博物館や考古学遺跡で盛んになっているワークショップを中心とした実例、それ に街歩きや観光地におけるユニバーサル・ミュージアム的な試みが詳しく報告されている。たくさんの人を集め楽しませるかが、やはり最優先されることがわか る。広瀬さんのすごいところは、さわることは人間にとって欠かせないという強い信念を持っていることだ。今回は聴覚障碍者である相良啓子(民博特任助教) との対話から始まったので驚いたのだが、障害とは社会的マジョリティがマイノリティに押し付けた「虚構の論理」にすぎないと喝破し、単なる同情などではな く根本にかかわる問題であることを考えさせられた。

ここで一つ注文を出しておきたい。広瀬さんの学問的興味と熱意はこれからも展開してい くだろう。しかし、いまのところ、私は博物館にこだわりたいのである。この研究会を始めたきっかけの1つは国際シンポジウムだった。そのときは外国とくら べて日本はずいぶん遅れているという気がした。しかし、日本においてもさまざまな萌芽を十分に発見できたし、特にこの10年近い我々の研究は十分成果を上 げて準備は整ったはずだ。そのためにはこの問題が諸外国ではどう進展しているのかを知るとともに、日本の博物館研究がそのなかでどんな位置にあるのかを確 かめる国際シンポジウムをぜひやってもらいたいと願うのである。

(小山 修三)

2016年8月30日火曜日

【報告:2016.8.28 シンポジウム「山と関わる信州の文化考える」 @小川村】


『季刊民族学』の「信州の山」特集をクローズアップする「山の日と信州の山文化」を考えるシンポジウムが小川村でひらかれました。モデレーターは小山修三 理事長。パネリストは発言順に江本嘉伸氏(地平線会議代表世話人、梅棹忠夫賞選考委員)、扇田孝之氏(地域社会研究家、梅棹忠夫賞委員会委員)、神長幹雄 氏(「山と渓谷」元編集長、梅棹忠夫賞委員会委員)、中牧弘允(民博名誉教授、吹博館長、同村出身)の4名。

江本氏が「山の日」の精神は2002年の「国際山岳年」、ひいては1992年のリオ地球環境サミットにあることを力説する一方、扇田氏は「登山の山」ばか りではなく「里山の暮らし」を考える日でもあることに注意を喚起しました。それを受けて神長氏は皇太子殿下も信仰や生活に根ざした山を大切にしておられる ことを指摘し、中牧も小川村の御柱や山岳信仰の戸隠、山中他界観をもつ善光寺、そして残雪の雪形が農作業に貴重な情報を提供していることなど、信仰や暮ら しに息づく山のありかたを紹介しました。

翌日の信濃毎日新聞には「山と関わる信州の文化 考える」という見出しで記事が載りました。同村の参加者の一人は「『山の日』は登山家だけのものではなく、里山・山間に暮らす人びと、そこに関わる人びと こそ、その創設の思想を理解し、行動すべきだというメッセージは小川の民に響いたことと思います。」と感想を寄せてこられました。
特集「信州の山」は地元でもおおきなインパクトをあたえたようです。
(中牧 弘允)


****************
このシンポジウムのハイライトは中牧さんのふるさとに対する熱のこもったトークでした。まるで、小川村が世界の中心のような気がしたほどです。いま、地方 創生が話題となっていますが、ふるさとに対する「愛情」と「プライド」こそ、もっとも重要なキーワードであると思いました。(小山 修三)

2016年5月23日月曜日

三内丸山縄文発信の会理事長の藤川直迪さんを悼む

三内丸山縄文発信の会を、発足当時から率いてこられた藤川直迪さんが、去る3月14日に肺炎のため逝去されました。これを悼み、小山が『縄文ファイル』No.224に追悼文を寄せております。



謹んでご冥福をお祈りいたします。( こぼら)

小山センセイの縄文徒然草:3月号、5月号のお知らせ

小山センセイの縄文徒然草のお知らせが滞っておりました。
3月号は「鳥と縄文人」↓
http://aomori-jomon.jp/essay/?p=8438



5月号は「縄文時代の災害」↓です。

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=8465

どうぞよろしく(こぼら)

2016年4月7日木曜日

サクラ


奈良の観光客は大仏殿が中心
日本人のサクラ好きは異常で、考えさせられることが多い。若いころは、「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花(うろおぼえですんません)」の和歌のような国粋主義的なにおいが重ったるくて反発していたのだが、今は悟りの境地にたっしたのか、うきうきと行動範囲にある万博公園や奈良のサクラを見物している。

花見のはじまりは記録的には平安時代の宮中の宴とされるが、万葉集にもそれらしい歌があるし、『源氏物語』にもかかれている ので根は深いことがわかる。しかし、私たち庶民の花見、ボンボリをつるし、ゴザをしき弁当を広げて宴をひらく、という原型は江戸時代後期にできあがったものだろう。

ボンボリ
満開のサクラの見事さは外国でもワシントンのポトマックが有名であるように人を引きつける力があることはよくわかる。しかし、さすがにビニールシートをしいて地べたに座り、乱痴気騒ぎをすることは見ない。最近、インバウンド客が話題になっている観光でも、ITで見るかぎり中国をはじめとした客が多く、吸客力がすごいらしい。それでは、花見の将来はどうなるのか、短期間のうちに一斉に咲き、みるまに散ると言う劇場性を賞するにとど まるのか、それとも(日本人のように)非日常の世界にまで突入するのか。サクラの魔力が効いて後者になるとコワイのだが。

着物を着 た中国
の女の子
(小山 修三)

2016年4月1日金曜日

狩人の肖像画:特別展「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる 人・物・世界―」から



1790年、蠣崎波響は松前藩のために、前年のクナシリ・メナシの戦いに功績のあった12人の酋長の肖像を描いた。当時の日本人には北の狩猟民に関する情 報がほとんどなく、世の好奇心をかきたてたのだろう、絵は京都にももちこまれ評判をよんで多くの模本が作られている。基本的には実写にもとづいていて描か れた英雄たちは、表情が誇張されているものの、錦の衣服をまとい、アクセサリーをかざり、弓、槍、刀をもって立つ。春木晶子さんは「異容と威容」が強調さ れていると指摘している。*

展示場を歩いていて、アーネムランドでのフィールド調査を思い出した。私は縄文人のような狩人の生活に憧れていて、さかんに写真に撮ろうとしていたのだ が、彼らの忌避感が強くて、断わられることが多く苦労した。その理由の一つは彼らの生活ぶりを写実的に、スナップ・ショットで撮ろうとしていたからだろう と今は思う。格好よく、あるいは威容のある姿でという彼らの思い(それは私たちも同じである)を無視していたことが夷酋列像を見てよくわかった。

その点でいえばP.トウィーディ女史の写真集『This My Country』(1985)の1970年代に撮ったボスたち姿は見事だった。トラクターを運転している像、コーラを手にした娘を肩にのせ銃をもっている 像など構図や表現にこだわっていて、「我らは原始人などではない、現代人である」という主張があらわれている。さすがはプロ、写されることを了とした人々 との緊密な気持ちの交流があってのものだろう。

私のムラのボスだったフランクが獲物のカササギガンを担いだ写真もその一つで、2羽のカモをかかえた夷酋イコリカヤニ像と雰囲気がよく似ていた。狩りのえものは豊かな世界に住むという矜持をあらわすためには重要なものなのだと思った。

(小山 修三)

*特別展図録: 北海道博物館(編) 2015 『Ishuretsuzo, the image of Ezo 夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―』 発行:「夷酋列像」展実行委員会・北海道新聞社
写真も上記図録から

2016年3月19日土曜日

野鳥から見た里山:150年前の山口県


五島淑子さん(山口大)から研究報告の抜き刷りが届いた。彼女の専門は食物学で、ここ数年は天保12年(1842)に編纂された『防長風土注進案』に書か れた食品を同定し、それをリスト化してデーターベースにするという肩のこる作業をおこなっている。今回は1)農作物・採集品 2)魚類、3)薬品につぐ 4)鳥獣獣類である。将来はこれらの産物がどこで取れたかをインターネットで一般公開し地図に表示できることをめざしているそうだ。
ここでは鳥類に注目して私の感想を述べてみたい。

鳥類は91種(なかにニワトリ、チャボ、アヒルの家禽がふくまれている)で、現在観察されている330種(山口県立山口博物館1987『山口県の野鳥ガイ ド』)とくらべると少ないのは当時の人々と現在の認識法(科学的でこまかい)との差によるものである。記載のうち、キジ、マガモ、ヤマドリ、スズメ、ハト など食されたと考えられるものが多いのは当然である。しかし、鳥類は好みの環境があり、浜辺ではカモメやチドリ、上空をトビ、ハヤブサ、ノスリ。町にはカ ラス、スズメ、ツバメ、周辺の野原や林にはキジ、モズ、ウグイス。水辺にカワセミ、サギ。森にフクロウ、キツツキ。ほかにメジロ、シジュウカラ、サンコウ チョウなど小鳥が意外に細かく分類されているのにも日本人の感性がうかがわれる。


鳥類は環境変化に敏感で急激に数を減らしたり、絶滅にいたることもある。150年以上前の記録でもコウノトリはすでにみえないし、トキは絶滅、ナベヅルは 県鳥として保護された熊毛郡八代にわずかに残るだけである。しかし、その一方で都市的環境に適応して増えすぎるカラスとかハト、(一部では)ウやサギが敵 視されることもある。そういう問題を内包しながら、この時代の人たちは、トリたちと共存していたことを忘れてはならないと思う。私たちの祖先が作ってきた 環境をどうやって守るかが、これからの私たちの仕事だと思う。里山は日本人の心の風景であり、トリはそのシンボルなのだとおもう。

(小山 修三)

五島淑子ほか「『防長風土注進案』の産物記載に見る食品目録(3)」 『山口大学教育学部研究論叢(第1部)』65巻1号
※この論文は、 山口大学学術機関リポジトリより入手可能です。
http://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/G0000006y2j2/Detail.e?id=2585620160325162309
をご覧ください。

※写真;万博公園のカラス

2016年3月5日土曜日

アレッポの石鹸



ISの台頭で社会混乱が続くシリア。そのホットな場所の一つにアレッポという町があリます。どこかで聞いた名だと思ったら、風呂場でみつけました。緑の混 ざった茶色の石鹸、自然食品屋さんで買ったそうです。家事にうといので気がつきませんでしたが、知る人ぞ知るものらしい。オリーブと ローレル(月桂樹)オイルを原料として、1000年近い歴史をもっています。

シリアは中東ではごく最近まで平穏な地域で、友人の赤沢威さんはネアンデルタール人を、泉さんはローマ時代の都市を永年掘って大きな成果をあげています。 それもいまは夢。今日買いにいったら、お店の大きな木箱が空っぽになっていました。きっと補給が途絶えたのでしょうね。

梅棹さんは早くから21世紀で問題なのはイスラム圏と喝破していました。しかし、私たちにとって遠い国、歴史や現状もよく理解できていない。人類の叡智を信じて、はやく平和な世界が還ればいいのに、と願うばかりです。


(小山修三)

2016年2月28日日曜日

清少納言がジャパニーズ・レストランに行ったら


アメリカの日本料理店でセットメニューを頼むと、まず生ぬるいみそ汁がでてくる。それを飲まなければ次がでてこない。それが、私にはしっくりこなかった。 今のわたしたちの食べ方は、ヌタ、もやし炒め、アジフライなどが一度に出てくるのだが、これが西欧ではただしい配膳法なのだ、と言われるので仕方がない。

ここに清少納言さんを連れて行ったら、これは労働者の食べ方だ、「いとあやしけれ」と怒るにちがいない。(*注1)彼女の食べ方は(私と同じく)全品を並べる配膳だったからである(多分)。

この絵はWikipedia”清少納言”の項より
かように食文化とは材料や料理法だけでなく、食べ方までふくめてそれぞれの地域によって異なる、「総合的な体系」なのである。オーストラリアでアボリジニ の村に住んでいたころ、獲ったカササギガンを、羽根をむしり、にこ毛を炎で焼き、身を裂いて分解して食べるという、実に簡単とおもった キャンプ食も彼らなりの食べ方のルールがあることを知って、あとで深く恥じ入った経験がある。日本の食文化を民族学の立場から書いた石毛さんの本の書評 (*注2)を書こうと読んでいて、そんなことを思い出した。

(小山 修三)

*注1:枕草子の有名な項だが古い流布本「能因本」にしかあらわれない
 *注2:http://senrinomori.blogspot.jp/2016/02/20153456.html参照

2016年2月23日火曜日

一掬の酒が興すユートピア


地方創生に興味がある。その動きが活発になってきた。たくさんのイベントが催され、Uターン、地方移住などの動きも出はじめている。一億総活躍など政府の 音頭取りに乗ってともいえるが、それよりもぼやぼやしているとまわりに誰もいなくなると気がついたのだろう。最近、参加して大変印象深かったイベントにつ いて感想を述べてみたい。

チョコレートは酒かすを利用したもの
山口県萩市の山間にある小さな集落が集中豪雨に見舞われた。幸い死傷者はでなかったが再建が危ぶまれるほどの壊滅的な被害を受けた。その集落に一軒の酒造所があった。よほどいい酒だったのだろう、「あの酒をも一度のみたい」という有志が酒蔵の再興を応援し始めた。

おもしろいのは彼らが「地産地消」の理念を掲げたことだ。完全無農薬栽培によって野性たっぷりのコメ(山田錦)をつかい、電力はソーラーでまかなう。今、 私たちが食べている農産物や肉、魚介類は輸入もの、日本のものでも農薬をつかい正体不明のハイブリッド種もあり、電力については原発からという動きが強 い。つまり、私たちの生活はなんとなく薄気味悪い影がつきまとっている。もちろん原理主義的にすべてを拒否してはやっていけないのだが、せめてここではそ んな不安のない生活を実現してみようと彼らは考えたらしい。それを実現するにはカネも時間もかかるが、それでもユートピアへの夢に向かって一歩ふみだすと いう贅沢を楽しみたいと考えているようにみえる。

あの災害から3年、活動が実を結んで、会員にあたるくらいの量の酒を絞ることができたという。絞りたての酒を味わう会がひらかれ、おにぎり、小魚、果物など自然食品をつかった食事が出た。質素なものだが地域のプライドで味付けされていて文句は言えない。

酒蔵の見学
シンポジウムには環境、民族、哲学、料理の専門家が加わってハイブロウにして喧々囂々、私たちがモデルにすべきは中国か北欧か、日本の教育はこれでいいの かなどが論じられた(主催者はこれをまとめたいといっていたが大変だろう)。それでも、この手の会によくあるドグマティックな議論におちいらなかったの は、「楽しみながら生きる喜びを」という基本思考が生きていて、爽やかな後味になった。若い人たちが多かったのも心強かった。それにしてもサケの力はすご いとつくづく思った。

(小山修三)

2016年2月19日金曜日

こんな本を読みました:石毛直道著『日本の食文化史-旧石器時代から現代まで』岩波書店 2015年


【飢えた巨人:ショージ君と鉄の胃袋ハカセ】
東海林さだおと石毛直道の二人が同時代の食文化の巨人だと私は考えている。奇しくも、両氏とも1937年生まれ、北関東で少年時代をおくった。37年は日 中戦争の始まった年で、その後日本の食事情は悪化の一途をたどり、とくに敗戦後はひどかった。コメが手に入らずイモ、カボチャなどの代用食、おかずもしば しば野山で採集という縄文時代のような状態だった。2人とも満腹と感じたことはほんどなかったのではなかったようだ。(いまも?)


【2人の共通点】
そんな飢餓感が胃腸が頑健でメタボ気味のお2人のあくなき食への興味と行動の基本にあるようだ。幼時のスリコミのすごさというべきだろうか。
ショージさんはマンガ家、エッセイストとしてマスコミの第一線で活躍していているが、1987年からはじまった『まるかじりシリーズ』は単行本としても 30冊を越え、膨大な記録となっている。短いエッセイに取り上げるのは、立ち食いソバ、ラーメン、カレーライス、オデンなどほとんどがB級グルメ。これに 対し、石毛さんは60年代から文化人類学者として世界各地をとび歩いているが、アフリカ、オセアニアなどのいわゆる未開社会が主で、欧米のグルメとは関係 のない場所だった。(2人とも高級料理も食べているはずだのに)

【2人の相違点】
ショージさんが行く店の多くは安価で小さな店だが、食品や客や店主たちのかもす雰囲気は現代日本の食文化の一面を鋭く描きだしていてエスノグラフィー(民 俗誌)として上質の記録となっている。しかし、テンカスをのせたソバがどんなにおいしいと感じても、ふつうの欧米人、いや、アボリジニの人たちでさえ喜ぶ とは思えない。つまり、それは日本の「文化」であり日本人にだけしか分からないものである。
一方、石毛さんは食に対し「うまい、まずい」の判断はほとんどしない。ある講演会で「先生はゲテモノ食いですね」と聞かれて「いいえ、土地の人が食べてい るものを食べているだけです」と答えたが、どんなモノが出ても逡巡しないという民族学者根性は見事だと言うほかはない。石毛さんは自分らの食文化研究の立 脚点は「文明」であると語っている。個別の文化をのべながらも比較の目を失わず人類に共通するものを見つけ出そうとしているのである。これが2人の大きな 違いと言える。

【日本食の歴史】
本書は、先史(旧石器、縄文)、稲作社会の成立(弥生、古墳)、日本的食文化の形成(飛鳥~室町)、変動の時代(室町~安土・桃山)、伝統的な食文化の完 成期(江戸)、近代における変化期(明治~平成)の期に分けてその歴史をたどっている。弥生時代に稲作は始まってコメを主食、采として魚醬・塩辛がつかわ れるという日本食の基本ができた。その後、肉と乳製品が欠けてゆき、麵類が組み込まれ、南蛮料理の刺激を受け、江戸時代にはレストラン、スナックなど都市 なかで料理が成立、それらが社会変化や技術進化によって磨かれていったことがわかりやすく述べられている。

【文明としての日本食】
本書がおもしろいのは終章において大きな逆転があることだ。1960年代から精力的に世界を廻っていた石毛さんはろくろく料理(cook)もしない魚を生 で食べる日本食が世界性を獲得することは困難であると考えていた。早くから書き溜めていた本書にもその俤が処々にみえる。ところが1970年代末にアメリ カでスシブームが起こり、それが世界にひろがっていった。スシが食の世界を変えたと言ってもいい。
石毛さんは早くも、1980年にロスアンジェルスの日本料理店を調べている。私もメンバーの一人だったが、高級料理店に映画スターや弁護士などのセレブた ちが集まる盛況ぶりに目をみはるばかりだった。もともとは米政府による高エネルギー高タンパクのアメリカ食が肥満や生活習慣病によるという反省からでた勧 告に発したもので、わたしたちの調査の結果も同じことを示していた。しかし、それにしても彼らのタブーにちかい「ナマの魚をこれだけ食べるのはねー」とい う日本人としての疑問が拭えない。それを石毛さんは「うまいからである、カキは生で食べてるじゃないか」と言い放った。なんでも食べてきた民族学者の真髄 を見た気がした。

【日本食のこれから】
その後、スシだけでなく日本料理全体が評価されて世界文化遺産に登録されるまでに至った。しかし「伝統を押しつけたり、守りに廻って押し付けてはならな い、伝統の本質は絶えざる創造の連続にあるのだから」。いま世界各地で展開をみせている日本料理の未来を見守って行きたいというのが石毛さんの最も重要な メッセージであろう。

(小山 修三)

2016年2月13日土曜日

市民たちの博物館 都市のなかの生き物


吹田市立博物館の館長だったとき、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、思い切った手を打った。博物館の企画がマンネリ化して入場者数の減少 が続く状態を打開するために、市民に企画・運営をゆだねる「千里ニュータウン展」をやることにしたのである。千里ニュータウンは1960年代から始まった 日本最初の大型ニュータウンであり、それが70年万博につながったこともあって吹田市民の誇りになっている。そのためか、この特別展は2ヶ月足らずの開催 期間で、例年の3倍の観客を動員するという成果を挙げた。市民がやった展示はなんとも規格はずれのものとなった。普通なら当時の電化製品やおもちゃ、そし て写真、パンフレットくらいで終わるものが、居間や勉強部屋、(ホクサンバスオールとよばれる携帯式に近い)風呂場を再現したり、超小型自動車ミゼットま で担ぎ込む事態に至ったからである。

目を見張ったのは自然に興味をもつ市民委員たちの活躍だった。近代的なニュータウンの建設とは大規模な自然破壊であった。私には彼らが馴染み深い里山の消失を悲しみなんとかそ れを取り返そうとしているように見えた。彼らはそれまで雑木林や田圃、公園、空き地、ため池、河川敷を丹念に歩き動・植物のあり方を継続的にしらべており その変化の記録を図や表にして展示したのである。そこに示されたのは生態系のバランスの崩れである。とくに外来種が固有種を駆逐しそうになっていること は、河川やため池のブラックバスやブルーギル、農地でのアライグマやヌートリア、荒地のセイタカアワダチソウやナルトサワギクの繁茂などから明らかであ る。もっとも外来種でなくとも町にあふれるカラスや農地のシカ、イノシシ、サル、クマの増えすぎもある。

その責任は人間の行為にあることがおおい。生活の快適さだけを追求することを止められないとしたら、絶滅する種が出ることも覚悟しなければならないだろ う。しかし、よく調べると絶滅危惧種とされる動植物が身を潜めるように生き残っているという発見には励まされる思いがした。町に君臨しているカラス、高層 ビル街にすむハヤブサ、アフリカでは黒ヒョウが町でゴミあさりをしているという話を聞いたときはのけぞってしまった。生物は環境に適応してそう簡単には滅 びないのかもしれない。環境さえ変われば新しい復活と均衡が生まれてくるのである。

自然派委員の活動は継続的で、のちに「吹田の自然」を扱う夏季展覧会として定着した。展示と連動してセミの抜け殻やタンポポの調査などの自然に親しむイベ ントが子供たちに喜ばれたからである。地方の博物館や博物館相当施設はほとんどが文科系であり科学系の自然史を扱うことは難しいといわれる。しかし、市民 の多様な視点と協力がそれを変えてゆく力となり、これからの博物館や博物館相当施設のあり方を示していると思う。

(参考文献)高畠耕一郎 2015『街なかの自然-大阪吹田の生き物たち』アットワークス

(小山 修三)
せみのヌケガラ調査を(子供と壁に向かって)記録している高畠さん