2014年12月15日月曜日

龍河洞の「神の壺」



12月3、4日、高知県の香美市へ講演にいった。行くのが楽しみだったのはこのマチに龍河洞があったからだ。龍河洞は長さ1kmもある鍾乳洞で、狭い割れ目をえんえんと登る。途中、鍾乳石の造形、マリヤ様とか七福神とか神殿とかファンタジックな「見なし」スポットがたくさんある。そして、終点(頂上)近くには考古遺跡、弥生時代に壁際にふと置かれた壺が、天井からの雫を受けてそのまま鍾乳石化して残り神の壺とよばれている。洞窟は古くから知られた遺跡で、私もむかし遠足で行ったような気がするのだがどうもはっきりしない。

龍河洞は観光地としてははやくからブームに乗ったところである。平日で閉館まぎわということで人影はまばらだったが、聞いてみると年間1020万の人が来ているという。しかし、万博のあった1970年には100万をこえていたそうで、その前後の年が最盛期だったらしい。施設はその頃に整備されたらしく、狭く、険しい通路は鉄板の階段や板がしいてあって歩きやすいし、要所には案内がいて説明してくれる。外にでると、博物館、動物園、みやげ店があり受け入れ態勢は万全にちかいといっていいだろう。

しかし、そのために時代的なズレを感じることも事実である。たとえば、洞窟―考古学遺跡という結びつきは、かつては毛むくじゃらのヤバン人というイメージにピッタリであった。しかし、最近では、縄文時代ですら三内丸山遺跡の発掘からヒスイのネックレスをつけ、赤や黒のカラフルな衣装をきていたことがわかってきたし、ましてや、弥生時代には吉野ヶ里遺跡でみるように貴族が絹の衣装を着て、黄金のアクセサリーをつけていたことが常識となってきた。つまり、ここにある、博物館や場内施設の説明はしっくりこないのである。それは施設にも言えることで、当時は1日、何千人も来る観客を、滞りなく安全にハカすためにつくられていることが自然との触れ合いをめざす観光にはそぐわない気がする。それは地元でもわかっていて特別企画の洞窟探検コースとか、地元色を生かしたみやげもの開発などさまざまの試みがおこなわれているのも事実なのだが。

この問題はじつは観光だけではない。人口減少―人手不足が問題となって地方消滅の危機さえ叫ばれる日本という国の大問題なのである。60年代後半から80年代の日本には勢いがあった。しかし、時代は移って知識や社会の仕組みそのものが大きく変わり、右肩上がりの思考法ではもうやっていけないことは確実である。観光は地域を救うカギになると言われ、それを軸に活力のあるマチ作りをする時も、もう一度、基本に帰って考えてゆく姿勢が必要ではないだろうか。

(小山修三)

写真は、香美市HPより 



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