2015年2月23日月曜日

平安時代の留学生の食@中国(円仁の日記から)

縄文FANサイトに連載中の「小山センセイの縄文徒然草」
外国に出て行ったときの和食の話、第二弾は
「平安時代の留学生の食」
でございます。どうぞよろしく。

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=7648

2015年2月22日日曜日

春を告げるキムチ

I先生の研究室でながい食談義をした。話題の一つが胡椒と唐辛子だった。
幕末に咸臨丸がアメリカに行った時、コメ、ミソ、ショウユなど大量の原料と調味料をつんでいったのは旅行中も日本食を食べたかったからである。
なかにコショウとトウガラシがあったがコショウが気になった。今の和食にはあまりつかわれないからだ。

コショウはいうまでもなく大航海時代を起こした原因の一つであった。
I先生によると、コショウはトウガラシより先に日本に輸入されて一時はブームを呼んだそうで、使い方はウドンにふりかけていたのではないかと言う(ラーメ ンに欠かせないものだが、ウドンにとは聞かない、コショウウドンがあればレセピーがほしい)。しかし、そのあとトウガラシに取って代わられたそうだ。

そんなことを考えていたので帰り道に鶴橋に寄った。狭い迷路のようなマーケットには小さな飲み屋や食料品店が並ぶ。
日本の店がデパチカに代表されるように、大型化し、食品も小ぎれいなラベルのついたパック入りになって工業製品的になってきたが、ここでは手作りの伝統が生きている。素材と漬物の間がごく近いのだ。

トウガラシにまみれたキムチのケース。キムチといえば白菜と思うが、今はワタリガニの季節。他に長ネギ、小松菜、ラッキョなど新鮮な野菜、その白、緑と赤いトウガラシの色の対比が鮮やかで、春の訪れを感じた。

写真の中央ケジャンがワタリガニ
(小山修三)

2015年2月9日月曜日

こんな映画を見ました「KANO 1931 海の向こうの甲子園」


むかし、阪神タイガースに呉昌征という外野手がいて、台湾のタカサゴ族だから馬力があるんだと聞いて応援していた。そんな四国の田舎の子供が信じていた間 違いだらけの情報の真実とディーテイルをこの映画で知った。あとでネットで調べるともっと情報があってついついハマッテしまった。

あらすじは、草野球レベルだった嘉義農林が昭和六年(1931)、甲子園に初出場し準優勝する。監督は日本人、ナインは蛮人4、日本人3、漢人2という構 成だった。スポーツ映画はダメ・チームが、いい指導者の下にまとまり強くなる、勝つに連れて無関心だったまわりが巻き込まれてゆく、そしてついに・・とい うのが一つのパターンだが、それが爽やかで快い。ところが、この映画には他にもたくさんの要素が入っていて、3時間をこえ、いささか冗長な気もするが、台 湾人として言わずにいられない事実がいっぱいあったからだろう。この映画は2014に台湾で空前のヒットとなったそうだ。

わたしは1973年から3年間、毎夏、台湾で発掘に参加した。台中の山側にある集集という小さな町の中学校の先生の家に下宿して大変お世話になった。当時 の(現在もだが)政治情勢は複雑で、エリートである台湾大学の学生は蒋介石政権がわ、町の人の多くはそれを新しい征服者と呼び、むしろ日本統治時代を懐か しんでいたのにとまどうとともに驚いた。

歴史を見ると植民地時代の政治は当初は確かにひどいものだったが、この映画の時代には一応の安定をみせ、教育や産業(農水路つくりはこの映画にもでる)の 整備をはじめとする技術革新の効果を人々は認めていた。印象的だったのは権力側にいたはずの先生、役人、警察官などに尊敬する人がたくさんいて、日本人の 真面目さ、勤勉さをほめていた。それは、李登輝元総督の発言によくあらわれていると思う。

たしかに、映画の中で日章旗や日本的町並みが現れるとぎくりとした。しかし、それは上からの目線で植民政策はすべて悪であるとする日本の知識人の観念的な 思い込みからくるものだろう(私も多分にそれがあるのだが)。といって逆に日本が恩恵を施したという極楽トンボ的な論にもくみしない。たしかに現実の社会 は複雑で多くの矛盾を内包して一筋縄ではいかないが、主体となるのは住民、彼らが何を受け入れ、何を拒み、何を望んでいるのかを見定めることが必要であ る。それは今のイスラム国の問題も同じであるはずだ。現場にたって問題の真相を探ろうとするジャーナリストや民族学者の任務はそこにあり、そうでありたい ものである。

(小山修三)