2014年1月30日木曜日

情報の時代 iPho?: ベトナム旅行記(その5)

工業の次は情報の時代が来ると梅棹さんが喝破したのは1963年だった。世界で最も早かったのではなかろうか(「情報産業論1963、『情報の文明学』1988)。はたして今は、アイフォーン(スマホ)の時代、情報化の波を肌で実感するようになった。

驚いたことにベトナムがそうだった。山間の小さな町の商店にもスマホの店があるし、ちまちました露天の店で昼食をとっている若者、それに子どもたちまで機器をもっている。「すごいネー」と言ったら、値段や使用料が安いからでしょうと現地ガイドは言った。

ツイッターなどによる情報氾濫は中国、ロシア、中東で騒乱を引き起こし政府転覆まで起きている。だから政府は情報氾濫に神経質になり、抑えこもうと強権をふるっている。

ところが、社会主義国のベトナムは少数民族の国だし、経済格差もけっこう目に付くのだが、それでもうっとうしい情報管理の話は聞かないし、不穏な騒乱の兆しも見えない。人々がゆるやかに日常生活を楽しんでいるようにみえるのは、悲惨だったあの戦争をのりこえドイモイ政策による右肩上がり経済の将来に望みを託しているからだと思う。

ところで、フォーはベトナムの麺。街道沿いの町並みには必ず複数の店が並んでいて朝、昼となく込み合っている。それをみてサヌキうどんの本場、わが故郷を思いだした。ちょっと立ち寄った観光客にその詳細については分かるはずはないのだが、戦争も政策も庶民の日々の暮らしには大した関係はない。四国の片田舎で少年時代を送った私は、庶民とはなかなかしぶといもんだとなつかしく、共感を覚えた。
 
(小山修三)

 
 

写真説明 上から
 
①お土産のTシャツ iphoとはフォーとアイフォーンとかけてある。

②ケータイを売る店はどんな小さな町にも

③フォーの店

2014年1月23日木曜日

ベトナムの焼畑村(2) :小山センセイの縄文徒然草に新記事アップ!

青森県のJOMONFANのサイトに連載中の縄文徒然草に、新記事「ベトナムの焼畑村(2)食の豊かな村」が掲載されました。どうぞよろしく。


http://aomori-jomon.jp/essay/?p=6826

観音寺のしち~ぼ~いが、ベトナムの農村になじんでいる写真もお楽しみくださいませ (^o^)


2014年1月10日金曜日

国境: ベトナム旅行記(その4)

ベトナム北部は中国と国境を接している。ライチャウの町には川を挟んで大きな橋がかかっていて、対岸は中国・河口市である。検問所の付近に銃を肩にした兵士が立っているのがみえる。国境とは自然とは別の人工的な行政区分だがそのために雰囲気ががらりと変わる。

かつてのベルリンの壁のように一発触発のホットなもの、オランダのように「酔っ払ってそっちに倒れるとベルギーに行っちゃうよ」と言うほどに緊張感のないもの。南米からアメリカに飛んだ時は、メキシコまでは道路や家が自然の地形に沿って作られていたが、鉄網の北のアメリカに入ると道路や町の区画などすべてが直線的になるのに驚いたものだ。一般生活者にとっては国境とはじゃまっけなモノで、遠く海に隔てられているので関係ないと思っていた尖閣諸島や竹島が政治家の手にかかると大問題となるのである。

ベトナムと中国の国境は自然条件としてはほとんど差はないけれど、やはり現在の経済力の差が歴然とあらわれていて、中国側の建物は大きく、高く圧倒的である。

観光がこれからの主産業になるのは世界の常識である。だからベトナムとしては、中国の経済力をうまく利用すれば利があるはずだ。ところが、町の様子は意外と消極的で広告その他に漢字がほとんどなく、ローマ字のベトナム語に固執しているのが明らかだ。そういえば、南のホーチミン市でも英語の看板が意外と少なかった。

それには歴史に深くかかわっていると思う。ベトナムは過去には征服や戦争によってくりかえし甚大な被害をこうむった。今でも漫然と対応していれば、グローバル化の波に流されて中国化やアメリカ化は避けられないだろう。政府は国民のアイデンティティを明確にし、それに誇りをもたせることが必要だと考えているようだ。苦難に耐え、しぶとく生き残ってきたベトナム人のパワーには感動を覚えるほどである。彼らは決して滅びない。これがこの短い旅の間にベトナム贔屓になってしまった私の感想である。 

(小山修三)