2016年9月26日月曜日

地方再生は可能か― これからの三豊・観音寺 ―


1.人口減少の時代
 『地方消滅』(増田寛也 二〇一四年 中公新書)のインパクトは大きかった。日本の人口は二〇〇八年をピークに減少をはじめ、二〇四〇年には一億人を切り、現在の半数ちかい八九六の市町村が消滅するという。また、人口が東京に一極化(札幌、名古屋、大阪などの大都市もある程度)しているのも問題である。これに基づいて、政府は「一億総活躍」の政策を打ち出し、全国の市町村もそれにならっている。たしかに、今の日本には老人が増え、子供の数が減り、商店街が寂れ、限界集落が生じ、放置された田畑や森林などの自然景観も変わってきている。ふるさとが消えてしまうという恐怖感が伝わってくる。

2.適切な人口数と分布とは
 日本列島の人口は、狩猟採集段階の縄文時代は約二六万人だったが、稲作農業が始まった弥生時代からぐんぐん伸びて、平安時代には一〇〇〇万人、江戸時代には三〇〇〇万人を超えた。さらに、近代化がすすんだ明治時代には五〇〇〇万人、一億人を超えたのは昭和五〇年だった。(鬼頭 宏 二〇〇〇年 『人口から読む日本の歴史』講談社)。地産地消を言うならば、江戸中期の三五〇〇万人位(現在の三分の一)が適正値だと仮定するのはどうだろう。人口密度としてはフランスと同じくらいになる。
 分布の一極化については、明治以来の近代化に伴って政治・経済の中心が藩から東京へと中央集権化されたことが大きい。主産業が農業から工業へと転換し、経済システムが全国化、さらにはグローバル化したという時代の流れがあった。それを乗り切った日本人の「すべてに経済が優先する」という志向については、考え直す必要がある。スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国の生活がモデルになるのではなかろうか。

3.香川県の現状:出産可能な若年女性と人口
 理想論を言っても仕方ないので、ふるさとに話題を絞ってみよう。『地方消滅』の巻末には、全国の市区町村別の将来推計人口表がある。二〇一〇年を基に二〇四〇年を推計したもので、「総人口が一万人未満となり、若年女性(二〇~三九歳)の減少率の高い自治体が消滅可能性都市」として表されている。北海道、東北、南近畿、南四国、中部九州などはマックロで心配だが、香川県は、土庄、小豆島、直島、琴平がそれにあたる。ところが、宇多津、丸亀を除けば、高松も含めて四〇パーセント以上の女性減少率であり、いわば灰色なのである。観音寺市の若年女性減少率は約五〇パーセント、総人口は六・二万人から四・二万人に減少、三豊市は同じく約四八パーセント減少で、総人口は六・八万から四・六万に減少とある。市役所躍起となるのは当然である。

4.観音寺第一高等学校の卒業生の進路
 このような状態に至ったのはなぜか時代を担ってきた観一卒業生の動態を検討してみたい。観一は地域のエリートを育て、さらに優秀なものを都に送り出す装置で、その伝統は三豊中学から引き継いでいる。最近の同窓会名簿(二〇一六年版)を見ると、第一回卒業生は昭和二五(一九五〇)年、そこから一〇年ごとに現住所をしらべてみた。現住所が活躍した場所を示すと考えた。雑音が多くベストな資料とは言えないが、感じはよくわかる。
 第一回(一九五〇年卒)は、戦後経済がなんとか上向きはじめた時期だった。それでも、都会はまだ治安や食事情が悪かったためか、香川県のセンターだった高松に出た人が目立つ。
 ところが、第一〇回(一九六〇年卒)になると京阪神・東京への進出率が三〇パーセント近くに跳ね上がる。私は第八回なので、かろうじてこの範疇に入るが、まだ、格差が残る貧しいクニを出るより仕方がないという想いも残っていた。しかし、その後の高度成長期の都会の吸引力はすざましく、大量の卒業生が都会に移っていったのである。
 ところが、七〇年になると一四パーセント、八〇年一〇パーセント、九〇年と二〇〇〇年は四パーセント前後と、京阪神・東京にる数は減少していく。この現象をどう見るのか。観一の力が落ちた(たとえば、東大合格者が少なくなった)という人もあるが、都会で「しんどい」いをするより、四国で十分という状態に至る、言い換えれば、地方も充実してきたとえるだろう。後輩たちはそれを敏感に察知して、時代を先取りしていたのかもしれない。

5.ふるさと観光大使
 いま観光が注目されている。人口を増やすためには「移民を受け入れる」という方法もあるが、その効果は劇薬に似て、大きな社会混乱を招くことは欧米のニュースで見る通りである。だから、地方に活気を取り戻し、若い女性を増やし出産率をげて人口回復を目指すという、穏健な策をとることにしたのだろう。まだ日本には余裕があると言えるのかもしれない。
 三年前に、「ふるさと観光大使」になってしいという依頼を観音寺市役所からけた。もっと若い人がと思ったのだが、これまで考古学や文化財保護についてマスコミで発言していることや、「外からの目」も必要かと思って承諾した。名刺を一箱頂いたが、あとはボランテイアということであった。
 観光とえば、もともと観音寺はそれでもってきたという歴史がある。かんおんじ港は、三豊平野のセンターとして、『兵庫北関入船納帳』に見るように、室町時代には相当な力をけていた。江戸時代には、四国八十八ケ所巡りやこんぴら参りの要所でもあった。花街もあった。しかし、現在、何が「キャッチ」かというと、悩ましいものがある。うどん? ちくわ? いりこ? かんとだき?   にくてん? あんぞうに? 私たちには十分だけど、と重なるものも多く「看板」としてはどれもイマイチである。砂絵や、瀬戸内国際芸術祭が伊吹島で行われることは、全国版になるのかもしれないが。
 は親類や友人が多いのでクニによく帰るが、最近のマチの変化は著しい。核家族化がすすみ、車社会になり、生活範囲が広がっている。建物も一新されつつある。個人商店がめっきり少なくなったのは、ちょっと淋しい。それでも、いろいろと思い出がよみがえる。いい思い出だけではないはずなのに、すべてが理想化されて美しいのは、クニを失った(住むとのかなわなかった)デアスポラ的な想いなのだろう。

6.新しい社会の在り方
 今は情報の時代である。はインターネットに注目している。国立民族学博物館・友の会のリサーチ用にフェイスブックを開いているが、その対象者のに観音寺グループがある。あいもかわらず、うどんの書きこみが多いのだが、もちろん、子供や女性のための活動、文化講座の開催、イベント創り、酒造り、それに居酒屋の若者の活動ぶりなど、様々なアイデアや活動が書き込まれていて頼もしく、熱気がある。
 もうひとつは、アメリカの友人の意見が聞けたことである。「四国に行きたい(祖谷の外人が古民家を改造してった民宿が、インターネットで海外に知れ渡っているらしい)、ついでに『お前のふるさと』にきたいというのだ。そこで、川鶴の酒蔵と山並み芸術祭を開催中だった大野原に行くことにした。「えー、何にもないよー」と心配していたのだが、アメリカ人は大感激した。これまでの観光旅行では見られなかった家族、友人、自然の中で生きている姿が心を打ったというのである。インバウンド客までふくめて、観光というものの核心はここにあるのだと思った。
 ふるさと創生は庶民の力によるしかないと信じている。この人口減少化時代にマッチした新しいビジョンを抱き、誇りをもって快適に生きること、それが肝要なのだから

(小山 修三)

この文章は、『巨(きょごう)』第20号 [観音寺第一高等学校同窓会 京阪神支部 平成27年度支部会報]、pp.167-171に掲載されたものを再録しました。

2016年9月21日水曜日

奈良の寝倒れ


昨日の日中は台風の激しい雨でした。このあたりは、幸い大きな被害はなかったようですが、外にも出られずベッド本を読んでたら、ぐっすり寝入ってしまった。実は、この昼夜逆転現象は今夏の厳しい暑さのせいです。昼間に冷房をつけて寝てしまうくせがついたのです。ところが『季刊民族学』157号で、信州の山特集をやったために、何度も長野県にでかけたので大変でした。

信州の仕事では祖父江孝夫先生の「県民性」の研究が役立ちました。薩摩の大提灯、信濃の小提灯、信州人は理屈っぽく独立独歩的だが、最後には「信濃の国」の歌を唄ってまとまる、という笑い話(実話だそうです)が当たってるなーと感じました。もちろん類型化は危険ですが、それでも鋭くポイントついている。

県民性と言えば、奈良には「寝倒れ」というのがあります。「京の着倒れ」、「大阪の食い倒れ」に対応するもので、温和な気候、豊かな経済にめぐまれているために、進取の気象に乏しいということだそうです。わたしは讃岐人で、(祖父江さんの分類では)機敏で、へらこいはずですが、奈良に住むようになって20年以上になると、上品でのんびりした人と化してしまったのかなー、それともだだの老化かしら寄る年波のせいかなーと、今も寝不足でぼんやりした頭で考えています。

(小山 修三)

2016年9月3日土曜日

【こんな本を読みました

広瀬浩二郎編著 2016 

『ひとが優しい博物館―ユニバーサル・ミュージアムの新展開』

青弓社 ¥2000円+税】



本書は昨年(2015)11月に民博で行われた公開シンポジウムをまとめたものである。ユニバーサル・ミュージアム研究会 の報告書としては『さわって楽しむ博物館』2012につぎ第二冊目となる。本書の終章でこの研究会のあゆみを紹介しているが、私が吹田市の博物館にいたこ ろ、硬直化している日本の博物館のあり方を正さなければ「博物館は滅ぶ」と考え広瀬さんに相談を持ちかけたことから始まった。今でも、博物館や美術館に とって「さわる」ことはタブーに近いのだが、関心を持つ若手研究者が意外に多く、マスコミをはじめ一般の関心も高いので回を重ねるごとに参加者が増えて いったのである。次にシンポジウムをやるときは民博の演習室では間に合わないので、講堂でやらねばと話し合っているほどだ。

本書の内容 は、美術館の多様なプログラムの現在、大学での実習や実践のありかた、各地の博物館や考古学遺跡で盛んになっているワークショップを中心とした実例、それ に街歩きや観光地におけるユニバーサル・ミュージアム的な試みが詳しく報告されている。たくさんの人を集め楽しませるかが、やはり最優先されることがわか る。広瀬さんのすごいところは、さわることは人間にとって欠かせないという強い信念を持っていることだ。今回は聴覚障碍者である相良啓子(民博特任助教) との対話から始まったので驚いたのだが、障害とは社会的マジョリティがマイノリティに押し付けた「虚構の論理」にすぎないと喝破し、単なる同情などではな く根本にかかわる問題であることを考えさせられた。

ここで一つ注文を出しておきたい。広瀬さんの学問的興味と熱意はこれからも展開してい くだろう。しかし、いまのところ、私は博物館にこだわりたいのである。この研究会を始めたきっかけの1つは国際シンポジウムだった。そのときは外国とくら べて日本はずいぶん遅れているという気がした。しかし、日本においてもさまざまな萌芽を十分に発見できたし、特にこの10年近い我々の研究は十分成果を上 げて準備は整ったはずだ。そのためにはこの問題が諸外国ではどう進展しているのかを知るとともに、日本の博物館研究がそのなかでどんな位置にあるのかを確 かめる国際シンポジウムをぜひやってもらいたいと願うのである。

(小山 修三)