2015年9月20日日曜日

五輪シンボル


五輪エンブレムが撤回されて、やり直しと大騒ぎである。ベルギーのある劇場が「うちのエンブレムのパクリだ、訴えてやる」という抗議をおそれたことが第一 の原因らしい。背後に大金が動いていることもある。作者はいくら貰う予定だったのだろうか。後始末の費用だけでも東京都が1500万円だそうだ。

あれはパクリだったのか?白黒vs色彩の違いがあるし、幾何的に円を分割した構成は意図的にマネたとは思えない。なぜ委員会が撤退をきめたのか、作家が反 論しないのかがふしぎなくらいである。netではギロン百出だが同世代の作家たちの意見は至極まっとうで、むしろ足を引っ張る嫉妬やクレームーによって利 益を得ようとする現代社会の悪弊を感じる。

すでに存るものに刺激を受け何かを作り出すことは歴史をみれば明らかである。絵画や彫刻の例を挙げれば美術館で古典を模写するのは当然の教育手段だった。 衝撃的だったのは1960年代のアメリカのポップ・ア-トである。リキテンシュタインやアンディ・ウオホールたちがコミックやスープの缶詰、マリリン・モ ンローの写真に手を加えた作品を発表した。当初は会社や個人との間に版権についてのトラブルがあったはずだが、いまでは世界の現代アート美術館に高額で買 い上げられ、展示されている。

また、わたしの専攻する美術史や考古学の分野での重要な手段法は、「様式」論である。様式とはある文化に共通してあらわれるものを見つけ、それが時代のモノサシになる。すると縄文時代の文化圏における土器装飾はすべてパクリといえるのである。

(小山修三)

2015年9月15日火曜日

見えない遺物を探す:くすり ~小山センセイの縄文徒然草~

小山センセイの縄文徒然草、今月は「見えない遺物を探す:くすり」です。

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=8078




2015年9月14日月曜日

開館120年特別展 白鳳 @奈良国立博物館


久しぶりにいい天気になったので奈良博にいった。美術史に興味があったので飛鳥・奈良には学生時代からよく行っていた。白鳳時代の作品は、飛鳥時代にはま だ外国文化が消化しきれていない感じなのにたいし、ようやく日本的になってきたので好きだった。薬師寺の日光菩薩像、聖観世音菩薩、法隆寺夢違観音などを みた思い出もまじってなつかしかった。

1m未満の小型の仏像が多くならんでいたが、なかに無残に首をもがれた像があった。いつ、なぜ、どのようにしてこうなったのか。最近、ISISやタリバン が中東で古代遺跡を爆破しているニュースが脳裏をよぎる。イスラム教はイコンを否定しているのでそれは分からなくもないのだが日本にもよく似た時代があっ たことを思い出す。キリシタン時代にあったが、とくに幕末から明治の初めの神仏分離では、たくさんの寺が打ちこわされたり焼かれたりしたという(もちろ ん、仏像も)。それにしてもあまりにもひどい、ファナティックにすぎる、人類の歴史は?知恵は?技術は?誇りは?何とかならないものか・・・と、古文化財 保護にながくかかわってきた身には激しい痛みに襲われるのである。

PS:10月24日からは正倉院展です。今年のメダマは紫檀の琵琶。復原した琵琶による演奏会もあるそうです。博物館もユニバーサル化しているのですね、あとはランジャタイ(蘭奢待)のにおいをかぐというのはどうでしょう、織田信長じゃないけれど。
(小山修三)

奈良国立博物館 開館120周年記念特別展 白鳳―花ひらく仏教美術―
のホームページ
http://www.narahaku.go.jp/…/2015…/hakuhou/hakuhou_index.html

2015年9月11日金曜日

おでん


オデンについて不思議に思っていることがある。汁は熱いし匂いもきついしアメリカ発のコンビニにはまったく合わないものだと思っていた。それなのに日本ではしっかり定着してしまった(わたし自身の乏しい経験では、アメリカのコンビニでオデンをみたことがない。)

オデンには基本的に「味噌をぬるもの」と「汁で煮るもの」との2つの系統があるようだ。種ものとしてはトウフ、コンニャク、チクワ、卵などが主となるが、 地方によって特別なものがある。とにかくバラエティー豊かで、全国オデン・マップもつくられている。そんな分布図をみてると考古学者だか民族学者の本性が 湧いてきて地方色を調べたくなり、さらには縄文時代へと思考がとぶ。

囲炉裏でいつも煮立っている大鍋、そのなかに投げ込まれた種もの、それを串でさして食べる。これは箸や受け皿の(少)なかった縄文人にとっては誠にぴった りの食べ物ではあるまいか。ようやく涼しくなったのでそんな妄想にかられるのにちがいない。さー、これから一杯やりに行きましょう。

(小山 修三)