2014年3月24日月曜日

縄文の食、世界遺産の和食@諏訪博物館



3月21日に中野不二男さんと諏訪博物館で対談をしました。中野さんは、JAXA、京都大学特任教授、ノンフィクション作家と八面六臂の活躍、最近は 「宇宙人文学」を唱えて、衛星写真、CG、情報についてコンピュータを駆使、独特の発想でさまざまの問題に挑んでいる人です(キマジメな私と話が よく合うのが不思議ですね)。実は一昨年同じ場所で縄文時代についてのトークをやったのが評判がよく今回、第二回目をということになりました。



長野県人(とくに諏訪のある南信)は理屈っぽく、勤勉、堅物、独立独歩、(権威に)反抗的、それに「おらが村」主義と祖父江孝男先生が言っている ように(『県民性の人間学』2010 筑摩文庫)、大変な風土のなかにいます。それなのに、私たちのトークが好評だったのは定説からズレているため でしょうか。

たとえば食については「縄文人は味噌をつくっていたのか(長野県シェアは全国の60%)」、「御柱は縄文時代からあったのか(三内丸山の六本柱との関係)」、「土偶の起源と意味は(最近また、尖石遺跡の土偶が国宝になった)」、などのおらが村的質問が会場から続出して、答えは さっぱりまとまらなかったのですが、衛星写真の解析とかオーストラリア・アボリジニのことまでだして煙にまいてしまった。そういうフリーな雰囲気が あの濃ーぃ人たちに好まれたのかもしれないと思いました。
(小山修三)

2014年3月16日日曜日

卒塾式@丹波縄文の森塾

3月は卒業の季節ですが、キューカンチョーこと小山リジチョーが塾長をつとめている丹波の森公苑の縄文の森塾も、3月15日(土)に卒塾式がありました。
参加した子どもたち一人一人に、中瀬勲公苑長から修了証が手渡されているところ。
それを見守る河合雅雄名誉公苑長(右から二人目)と小山修三塾長(右端)。


縄文の森塾は、子どもたちを自然に還そうという河合先生の発案で2002年に始まりました。当初は夏のキャンプだけだったものが、公苑の担当者とサポーターのみなさんの努力でどんどん発展して、最近では1年を通したプログラムになりました。四季折々、ふだんなかなかできない体験ができる充実した内容に進化しています。

卒塾式では、スライド(パワポ)で1年をふりかえったあと、子どもたち全員が一人ずつ印象にのこったことを発表してくれました。木登り(ツリーイング)や池で遊んだこと、水生動物を観察したこと、ちょっと(子どもには)きつい尾根歩きをやりきったこと、弓矢をつくって遊んだこと、凧を作って凧揚げしたこと、竹風鈴をつくったことなどなど・・・いろいろありすぎて、こっちが覚えられない!
今年のプログラム→丹波の森公苑HP 

5月に田植えしたイネを収穫、脱穀も自分たちでやって、12月の餅つきに使うなど、年間プログラムでないとできないことですね。12月には、餅つきだけでなく、ミニ門松作りもしたそうで、持ち帰っらお母さんがとっても感激してくれたのだそうです。
  
  縄文土器づくりのようす→2013年7月11日ブログ(1)ブログ(2)
  縄文土器焼きのようす→2013年7月26日ブログ7月27日ブログ

このプログラムに、来年度は、「吹田クワイ」の栽培が組み込まれるそうです。実は昨年、吹田から貴重な吹田クワイの種芋をわけてもらっていたのですが、子どもたちの作業日程とうまくあわなかったため、サポーターのSさんが、一部を公苑で、残りを自宅で栽培し、増やしていたとのこと。現在、保存中の種イモをみせてもらいました。
吹田の方には、事業のようすなどを、あらためて報告したいと言っておられました。
 (こぼら)

2014年3月12日水曜日

魏志倭人伝と衣装: 武田佐知子さんのお話


グレーター千里で働く人が集まって、一杯やりながら気楽に話そうという会がある。もとは小松左京さんが梅棹さんの話を聞くために四金会と称して月一回ひらいていたものだが、その志をうけついで名前だけは千里文明学会と勇ましい会を続けている。しかし、あの強烈な2人がいなくなった今、座談だけではまとまりがなくなるので哲学、考古学、コンピューター、経済動向など話題はなんでも、しかるべき講師を立てて話していただくことにした。講話は短く、あとの雑談がながいのは伝統というべきだろうか。


私が最初に武田さんの論文に注目したのは、彼女が若い頃発表した論文、ヒミコが着た服は中国の「男性」の皇帝をまねたものだったという鋭い切り口だった。その後、大阪大学の副学長になって探求をやめたのかと心配していたが、しっかりとそのラインを追い続け、弥生時代から江戸時代までの服装史を追い続けていたことがわかった。詳細は長くなるので割愛するが、日本の服装は女性と男性の差があまりないということではないかと思う。彼女の視点は「女性」にあるのが特徴である。

私がベトナムの少数民族をみて、明治時代からの日本の服装の変化を考え女性が男性と比べ保守的なのはなぜか、おしゃれだけではないのか、女性の意見を是非聞いてみたいと思った。武田さんは「男は権利に弱いから」と一言で切り捨てた。すごいなーと感服いたしました。


(小山修三)

写真は、今から15年前、1999年2月28日に開催された瀬戸内歴史民俗博物館が開館25周年記念シンポジウム「邪馬台国の謎を追う 投馬国は讃岐か?」での一コマ。

2014年3月2日日曜日

大雪被害


2月14日の朝、奈良は大雪だった。第二阪奈は通行止め、宅配便はうごかないなどの情報が入って来る。今日は飲み会があるのに駄目かー、と友人に電話したら「大阪はそうでもない、夕方から雨なので大丈夫」といわれ、こわごわすべる道をでかけていった。さいわい近鉄は動いており思ったより道中は楽だったが、苦難を乗り越えてわざわざ来たと恩にきせてやれと大げさに話してたら、Oさんが今日はシルバー仲間と春日山にいって地獄谷まで仲間と歩いてきた、楽しかった、といったので驚くとともに面目を失ってしまった。


写真:Oさん撮影

あの大雪は北陸や中部地方には甚大な被害を及ぼし、山梨県は地域全体が孤立に追い込まれそうになっていた。動けなくなった車の列、たくさんの除雪車、孤立した集落からヘリコプターで救助される人々、農産物の流通がとまる、被害額は何百億にのぼるとテレビや新聞が今もかきたてている。

この雪で日本もずいぶん変わったものだとつくづく思った。鈴木牧之の『北越雪譜』には豪雪の中で冬を越す北陸地方の生活が活写されているが、大変だったことはわかるもののそれでも人々はしぶとく生きぬいていたことがわかる。それに比べ現代の私たちは交通、流通網は機械化(自動車)され、農産物はビニールハウスでそだてている。何よりも情報をマスコミに頼っているがその論調はいつも「誰かが悪い」とする。すると今回はお天道様が悪いということになるのだろうか。現代人の心配の種はそこにある。

自ら動くこと、それが私たちの命をまもる基本であることを忘れてはならないと思う。
 
(小山修三)