2015年4月29日水曜日

カリフォルニアの山火事:デイアブロ山



カリフォルニアはここ4年間、雨が極端に少ないそうだ。これは周期的な気候変化でこの旱魃はこれから1000年は続くのではないかという古気候学者もいるほどだ。「今年の夏は芝生の水まきはもちろんシャワーも控えねばならんのではないか、しかしそれより山火事がこわい」とB氏は言う。山火事の跡をみたいと言ったらたくさんあるけど、といって連れて行ってくれたのが、デイアブロ州立公園、サンフランシスコから50kmほどの内陸にある山である。この地域は内陸に行くほど乾燥するので、いわば緑と砂漠の中間地帯に位置する微妙な場所だ。一昨年大きな山火事があったが、さいわい人命などの大被害はなかったそうだ。

デイアブロ山の頂上近くに1kmほどの手ごろなトレイル(遊歩道)があった。独立峰なので四囲がよく見渡せ、植生や地形がよくわかる。まず、西側の入り口には低木のカシとネズ(juniper)の茂みがあり、それが斜面に沿って下にのびている。道はそこから時計回りにゲッケイジュ (California Bay Laurel)の低木林をぬける。つぎにハナビシ科の植物を中心とするチャパレル(chaparral)の植生帯があらわれ、それが野生ムギ(wild oats) やフォックステールなどの草原へと移る。この植生の変化は日当たり、風、雨量などの気象条件を見事にあらわしている。

問題となるのはシャパレル地帯である。これは貧栄養で、水分の少ない土地に形成されるもので、他の植物もあわせた植物群落として表されることが多いようだ。これらは、人間の干渉がなければ15~40年の周期で発火するという特徴があり、なかには熱を受けてははじめて発芽するものもあるという火に適応した植物群なのである。このあたりの原植生はカシ、ネズ、シャパレル、草原というたけの低い植生だった。しかし、白人の入植以来多くの植物が持ち込まれ景観を大きく変えたのである。

するとどうなるか?
植物たちにいわせれば、もともと山火事がおこるのが当然の場所に人間たちがやってきて、火事がおこると不平を言うのは理不尽ではないかということになる。環境を変えるのがいいのか悪いのか、コントロールすることで人間の社会が発達したというのも事実なのだが。
 
写真(上)
2012の山火事で焼けたチャパレル。下草が盛んに茂り、素早く植生が回復していることが、盛んな下草のはえかたからわかる。





(小山修三)

2015年4月21日火曜日

ちょっとアメリカへいってきます

今日4月21日から5月29日まで、アメリカに行ってきます。

まず、カリフォルニアで旧友たちにあい、前から行きたかったイェローストーン国立公園にいって25年後の山火事のあとのファウナ・フローラの変化を見てくるつもりです。

そして、帰りは道沿いにボストン、アトランタ(昨年なくなった恩師キダー先生の墓参)、ふたたびサンフランシスコという具合で、距離的にはめまぐるしいのですが、ヨボヨボになった体のことも考え、ゆったりした旅程をくんでいます。

食、老人、東洋医学などFBでいつも気にしている話題があれば記事を送りたいとおもっています。どうぞよろしく。

*先日、オーストラリア研究の仲間たちと富山の氷見に遊びに行きました(写真は、高岡の金屋町にて)。魚、温泉がよくて、時ならぬ私の壮行会になりました。


 (小山修三)



【こんな本を読みました:久保正敏・堀江保範編著 2015『バウィナンガ・アボリジナル組合の議事録(1978~1994)から見る対アボリジニ政策とインフラ整備の歴史 マニングリダと周辺アウトステーションの活動史』、国立民族学博物館調査報告126】


オーストラリア・アボリジニは人類学者にとって夢のフィールドの一つであった。彼らは5万年以上もこの大陸で平和にくらし、その生活はずっと人類最古の狩 猟採集経済に依存していたからだ。ところが18世紀に英国によって植民地にされ、その社会は急速に崩壊の道をたどっていた。それでも、保護区として守られ た北海岸のアーネムランドや中央砂漠のムラには、伝統がいまも強くのこっている。その背後にはキリスト教のミッションを中心とするコンタクトの歴史があ り、それがとりもなおさずアボリジニの近代史といえるだろう。

アボリジニとって、つぎの大きな事件は、1967年の憲法改正の国民投票でオーストラリア国民と認められたことである(保護区内で守られていると言うことは人間としてみとめられていなかったわけだ)。これによって、政府がはじめてアボリジニ と直接かかわることになった。遠隔地にある保護区内には、拠点となる町がつくられて役所がおかれ、貨幣経済、福祉、教育、医療、衛生、地場産業の振興、通 信・道路網の整備、自動車整備工場、マーケット、住宅改善などにカネがつぎこまれていった。しかし、彼らの社会は現代国家とは大きく異なる原理で経済(交 換・再分配)、社会組織(親族・氏族・日常生活集団)、集落、心性、儀礼などがうごいている。そのため、急速な改革は大きな軋轢を生み、1970年代は混 乱状態がつづいていた。

マニングリダは旧保護区の地域拠点の一つ。私がこの町に行ったのは1980年で、行政組織の運営がようやく機能しはじめた頃であった。そのとき目にしたの がこの議事禄である。おおげさにいえば、これで縄文人が現代社会に直接出会いそれに適応していくというプロセスが分かる、それはアフリカや南米など世界各 国で現在進行中のものだから。こんな記録を集めて比較研究するのはおもしろいと考えたのである。

1991年には初期の議事録を発表し、その後も資料の蓄積を続けていたが、その膨大な資料を定年退職までに区切りをつけることが出来ずに忸怩たる思いだった。今回久保、堀江両氏が現地での調査の記録や写真をふくめて、まとめてくれたので肩の荷が下りた。

本書のあとがきに「人類学プロパーではない我々両名は、マクロとミクロ両視点の接合をねらい」とあるのをみて、私のやっていた事は(縄文への思いが強すぎ たのだろう)人と人の関係のおもしろさに重点をおきすぎていて、たとえば、著者たちが注目した交通・通信網などが社会に与える「現代技術文明」のマクロな 力を十分視野に納め切れていなかったと思う。とくに強く感じたのはテクノロジーの進歩である。私は「森に火をつける」彼らの行為に興味があったのだが、 80年代は旧保護区内の地図でさえ不十分で、勘に頼る状況で地上をはいまわっていた。しかし、本書ではGoogle Earthなどを活用することで鳥瞰的に地域を把握してマクロな解析できているのには時代差をひしひしと感じるのである。

(小山 修三)