2015年4月21日火曜日

【こんな本を読みました:久保正敏・堀江保範編著 2015『バウィナンガ・アボリジナル組合の議事録(1978~1994)から見る対アボリジニ政策とインフラ整備の歴史 マニングリダと周辺アウトステーションの活動史』、国立民族学博物館調査報告126】


オーストラリア・アボリジニは人類学者にとって夢のフィールドの一つであった。彼らは5万年以上もこの大陸で平和にくらし、その生活はずっと人類最古の狩 猟採集経済に依存していたからだ。ところが18世紀に英国によって植民地にされ、その社会は急速に崩壊の道をたどっていた。それでも、保護区として守られ た北海岸のアーネムランドや中央砂漠のムラには、伝統がいまも強くのこっている。その背後にはキリスト教のミッションを中心とするコンタクトの歴史があ り、それがとりもなおさずアボリジニの近代史といえるだろう。

アボリジニとって、つぎの大きな事件は、1967年の憲法改正の国民投票でオーストラリア国民と認められたことである(保護区内で守られていると言うことは人間としてみとめられていなかったわけだ)。これによって、政府がはじめてアボリジニ と直接かかわることになった。遠隔地にある保護区内には、拠点となる町がつくられて役所がおかれ、貨幣経済、福祉、教育、医療、衛生、地場産業の振興、通 信・道路網の整備、自動車整備工場、マーケット、住宅改善などにカネがつぎこまれていった。しかし、彼らの社会は現代国家とは大きく異なる原理で経済(交 換・再分配)、社会組織(親族・氏族・日常生活集団)、集落、心性、儀礼などがうごいている。そのため、急速な改革は大きな軋轢を生み、1970年代は混 乱状態がつづいていた。

マニングリダは旧保護区の地域拠点の一つ。私がこの町に行ったのは1980年で、行政組織の運営がようやく機能しはじめた頃であった。そのとき目にしたの がこの議事禄である。おおげさにいえば、これで縄文人が現代社会に直接出会いそれに適応していくというプロセスが分かる、それはアフリカや南米など世界各 国で現在進行中のものだから。こんな記録を集めて比較研究するのはおもしろいと考えたのである。

1991年には初期の議事録を発表し、その後も資料の蓄積を続けていたが、その膨大な資料を定年退職までに区切りをつけることが出来ずに忸怩たる思いだった。今回久保、堀江両氏が現地での調査の記録や写真をふくめて、まとめてくれたので肩の荷が下りた。

本書のあとがきに「人類学プロパーではない我々両名は、マクロとミクロ両視点の接合をねらい」とあるのをみて、私のやっていた事は(縄文への思いが強すぎ たのだろう)人と人の関係のおもしろさに重点をおきすぎていて、たとえば、著者たちが注目した交通・通信網などが社会に与える「現代技術文明」のマクロな 力を十分視野に納め切れていなかったと思う。とくに強く感じたのはテクノロジーの進歩である。私は「森に火をつける」彼らの行為に興味があったのだが、 80年代は旧保護区内の地図でさえ不十分で、勘に頼る状況で地上をはいまわっていた。しかし、本書ではGoogle Earthなどを活用することで鳥瞰的に地域を把握してマクロな解析できているのには時代差をひしひしと感じるのである。

(小山 修三)

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