2016年2月28日日曜日

清少納言がジャパニーズ・レストランに行ったら


アメリカの日本料理店でセットメニューを頼むと、まず生ぬるいみそ汁がでてくる。それを飲まなければ次がでてこない。それが、私にはしっくりこなかった。 今のわたしたちの食べ方は、ヌタ、もやし炒め、アジフライなどが一度に出てくるのだが、これが西欧ではただしい配膳法なのだ、と言われるので仕方がない。

ここに清少納言さんを連れて行ったら、これは労働者の食べ方だ、「いとあやしけれ」と怒るにちがいない。(*注1)彼女の食べ方は(私と同じく)全品を並べる配膳だったからである(多分)。

この絵はWikipedia”清少納言”の項より
かように食文化とは材料や料理法だけでなく、食べ方までふくめてそれぞれの地域によって異なる、「総合的な体系」なのである。オーストラリアでアボリジニ の村に住んでいたころ、獲ったカササギガンを、羽根をむしり、にこ毛を炎で焼き、身を裂いて分解して食べるという、実に簡単とおもった キャンプ食も彼らなりの食べ方のルールがあることを知って、あとで深く恥じ入った経験がある。日本の食文化を民族学の立場から書いた石毛さんの本の書評 (*注2)を書こうと読んでいて、そんなことを思い出した。

(小山 修三)

*注1:枕草子の有名な項だが古い流布本「能因本」にしかあらわれない
 *注2:http://senrinomori.blogspot.jp/2016/02/20153456.html参照

2016年2月23日火曜日

一掬の酒が興すユートピア


地方創生に興味がある。その動きが活発になってきた。たくさんのイベントが催され、Uターン、地方移住などの動きも出はじめている。一億総活躍など政府の 音頭取りに乗ってともいえるが、それよりもぼやぼやしているとまわりに誰もいなくなると気がついたのだろう。最近、参加して大変印象深かったイベントにつ いて感想を述べてみたい。

チョコレートは酒かすを利用したもの
山口県萩市の山間にある小さな集落が集中豪雨に見舞われた。幸い死傷者はでなかったが再建が危ぶまれるほどの壊滅的な被害を受けた。その集落に一軒の酒造所があった。よほどいい酒だったのだろう、「あの酒をも一度のみたい」という有志が酒蔵の再興を応援し始めた。

おもしろいのは彼らが「地産地消」の理念を掲げたことだ。完全無農薬栽培によって野性たっぷりのコメ(山田錦)をつかい、電力はソーラーでまかなう。今、 私たちが食べている農産物や肉、魚介類は輸入もの、日本のものでも農薬をつかい正体不明のハイブリッド種もあり、電力については原発からという動きが強 い。つまり、私たちの生活はなんとなく薄気味悪い影がつきまとっている。もちろん原理主義的にすべてを拒否してはやっていけないのだが、せめてここではそ んな不安のない生活を実現してみようと彼らは考えたらしい。それを実現するにはカネも時間もかかるが、それでもユートピアへの夢に向かって一歩ふみだすと いう贅沢を楽しみたいと考えているようにみえる。

あの災害から3年、活動が実を結んで、会員にあたるくらいの量の酒を絞ることができたという。絞りたての酒を味わう会がひらかれ、おにぎり、小魚、果物など自然食品をつかった食事が出た。質素なものだが地域のプライドで味付けされていて文句は言えない。

酒蔵の見学
シンポジウムには環境、民族、哲学、料理の専門家が加わってハイブロウにして喧々囂々、私たちがモデルにすべきは中国か北欧か、日本の教育はこれでいいの かなどが論じられた(主催者はこれをまとめたいといっていたが大変だろう)。それでも、この手の会によくあるドグマティックな議論におちいらなかったの は、「楽しみながら生きる喜びを」という基本思考が生きていて、爽やかな後味になった。若い人たちが多かったのも心強かった。それにしてもサケの力はすご いとつくづく思った。

(小山修三)

2016年2月19日金曜日

こんな本を読みました:石毛直道著『日本の食文化史-旧石器時代から現代まで』岩波書店 2015年


【飢えた巨人:ショージ君と鉄の胃袋ハカセ】
東海林さだおと石毛直道の二人が同時代の食文化の巨人だと私は考えている。奇しくも、両氏とも1937年生まれ、北関東で少年時代をおくった。37年は日 中戦争の始まった年で、その後日本の食事情は悪化の一途をたどり、とくに敗戦後はひどかった。コメが手に入らずイモ、カボチャなどの代用食、おかずもしば しば野山で採集という縄文時代のような状態だった。2人とも満腹と感じたことはほんどなかったのではなかったようだ。(いまも?)


【2人の共通点】
そんな飢餓感が胃腸が頑健でメタボ気味のお2人のあくなき食への興味と行動の基本にあるようだ。幼時のスリコミのすごさというべきだろうか。
ショージさんはマンガ家、エッセイストとしてマスコミの第一線で活躍していているが、1987年からはじまった『まるかじりシリーズ』は単行本としても 30冊を越え、膨大な記録となっている。短いエッセイに取り上げるのは、立ち食いソバ、ラーメン、カレーライス、オデンなどほとんどがB級グルメ。これに 対し、石毛さんは60年代から文化人類学者として世界各地をとび歩いているが、アフリカ、オセアニアなどのいわゆる未開社会が主で、欧米のグルメとは関係 のない場所だった。(2人とも高級料理も食べているはずだのに)

【2人の相違点】
ショージさんが行く店の多くは安価で小さな店だが、食品や客や店主たちのかもす雰囲気は現代日本の食文化の一面を鋭く描きだしていてエスノグラフィー(民 俗誌)として上質の記録となっている。しかし、テンカスをのせたソバがどんなにおいしいと感じても、ふつうの欧米人、いや、アボリジニの人たちでさえ喜ぶ とは思えない。つまり、それは日本の「文化」であり日本人にだけしか分からないものである。
一方、石毛さんは食に対し「うまい、まずい」の判断はほとんどしない。ある講演会で「先生はゲテモノ食いですね」と聞かれて「いいえ、土地の人が食べてい るものを食べているだけです」と答えたが、どんなモノが出ても逡巡しないという民族学者根性は見事だと言うほかはない。石毛さんは自分らの食文化研究の立 脚点は「文明」であると語っている。個別の文化をのべながらも比較の目を失わず人類に共通するものを見つけ出そうとしているのである。これが2人の大きな 違いと言える。

【日本食の歴史】
本書は、先史(旧石器、縄文)、稲作社会の成立(弥生、古墳)、日本的食文化の形成(飛鳥~室町)、変動の時代(室町~安土・桃山)、伝統的な食文化の完 成期(江戸)、近代における変化期(明治~平成)の期に分けてその歴史をたどっている。弥生時代に稲作は始まってコメを主食、采として魚醬・塩辛がつかわ れるという日本食の基本ができた。その後、肉と乳製品が欠けてゆき、麵類が組み込まれ、南蛮料理の刺激を受け、江戸時代にはレストラン、スナックなど都市 なかで料理が成立、それらが社会変化や技術進化によって磨かれていったことがわかりやすく述べられている。

【文明としての日本食】
本書がおもしろいのは終章において大きな逆転があることだ。1960年代から精力的に世界を廻っていた石毛さんはろくろく料理(cook)もしない魚を生 で食べる日本食が世界性を獲得することは困難であると考えていた。早くから書き溜めていた本書にもその俤が処々にみえる。ところが1970年代末にアメリ カでスシブームが起こり、それが世界にひろがっていった。スシが食の世界を変えたと言ってもいい。
石毛さんは早くも、1980年にロスアンジェルスの日本料理店を調べている。私もメンバーの一人だったが、高級料理店に映画スターや弁護士などのセレブた ちが集まる盛況ぶりに目をみはるばかりだった。もともとは米政府による高エネルギー高タンパクのアメリカ食が肥満や生活習慣病によるという反省からでた勧 告に発したもので、わたしたちの調査の結果も同じことを示していた。しかし、それにしても彼らのタブーにちかい「ナマの魚をこれだけ食べるのはねー」とい う日本人としての疑問が拭えない。それを石毛さんは「うまいからである、カキは生で食べてるじゃないか」と言い放った。なんでも食べてきた民族学者の真髄 を見た気がした。

【日本食のこれから】
その後、スシだけでなく日本料理全体が評価されて世界文化遺産に登録されるまでに至った。しかし「伝統を押しつけたり、守りに廻って押し付けてはならな い、伝統の本質は絶えざる創造の連続にあるのだから」。いま世界各地で展開をみせている日本料理の未来を見守って行きたいというのが石毛さんの最も重要な メッセージであろう。

(小山 修三)

2016年2月13日土曜日

市民たちの博物館 都市のなかの生き物


吹田市立博物館の館長だったとき、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、思い切った手を打った。博物館の企画がマンネリ化して入場者数の減少 が続く状態を打開するために、市民に企画・運営をゆだねる「千里ニュータウン展」をやることにしたのである。千里ニュータウンは1960年代から始まった 日本最初の大型ニュータウンであり、それが70年万博につながったこともあって吹田市民の誇りになっている。そのためか、この特別展は2ヶ月足らずの開催 期間で、例年の3倍の観客を動員するという成果を挙げた。市民がやった展示はなんとも規格はずれのものとなった。普通なら当時の電化製品やおもちゃ、そし て写真、パンフレットくらいで終わるものが、居間や勉強部屋、(ホクサンバスオールとよばれる携帯式に近い)風呂場を再現したり、超小型自動車ミゼットま で担ぎ込む事態に至ったからである。

目を見張ったのは自然に興味をもつ市民委員たちの活躍だった。近代的なニュータウンの建設とは大規模な自然破壊であった。私には彼らが馴染み深い里山の消失を悲しみなんとかそ れを取り返そうとしているように見えた。彼らはそれまで雑木林や田圃、公園、空き地、ため池、河川敷を丹念に歩き動・植物のあり方を継続的にしらべており その変化の記録を図や表にして展示したのである。そこに示されたのは生態系のバランスの崩れである。とくに外来種が固有種を駆逐しそうになっていること は、河川やため池のブラックバスやブルーギル、農地でのアライグマやヌートリア、荒地のセイタカアワダチソウやナルトサワギクの繁茂などから明らかであ る。もっとも外来種でなくとも町にあふれるカラスや農地のシカ、イノシシ、サル、クマの増えすぎもある。

その責任は人間の行為にあることがおおい。生活の快適さだけを追求することを止められないとしたら、絶滅する種が出ることも覚悟しなければならないだろ う。しかし、よく調べると絶滅危惧種とされる動植物が身を潜めるように生き残っているという発見には励まされる思いがした。町に君臨しているカラス、高層 ビル街にすむハヤブサ、アフリカでは黒ヒョウが町でゴミあさりをしているという話を聞いたときはのけぞってしまった。生物は環境に適応してそう簡単には滅 びないのかもしれない。環境さえ変われば新しい復活と均衡が生まれてくるのである。

自然派委員の活動は継続的で、のちに「吹田の自然」を扱う夏季展覧会として定着した。展示と連動してセミの抜け殻やタンポポの調査などの自然に親しむイベ ントが子供たちに喜ばれたからである。地方の博物館や博物館相当施設はほとんどが文科系であり科学系の自然史を扱うことは難しいといわれる。しかし、市民 の多様な視点と協力がそれを変えてゆく力となり、これからの博物館や博物館相当施設のあり方を示していると思う。

(参考文献)高畠耕一郎 2015『街なかの自然-大阪吹田の生き物たち』アットワークス

(小山 修三)
せみのヌケガラ調査を(子供と壁に向かって)記録している高畠さん