2013年12月28日土曜日

北ベトナム旅行と照葉樹林帯(3)


友の会会員の遠藤和雄さんのベトナム旅行感想記、第3回です。
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文化と言うものは生活条件の中で生まれるものです。

照葉樹林帯では腐植質の形成に担子菌類が大きな役割をしているので、その目で見ると樹木のリグニン分(これもポリフェノールの1種でキノコにしか分解できない)を食べるキノコが多いはずと思いました。

やはり何処の市場でも豊富なキノコが出回り、食されています。樹林に入れば簡単に採取出来るのでしょう。
市場で見た麹(これもカビの仲間)に関しては餅麹で小麦粉を原料として麹菌接種で作っているようです。マイチャウの民俗舞踊時に飲んだ酒は長粒種の赤糯米で作られてたようです。アミロペクチンで構成される糯米は簡単に糖化され易く酒になり易いからでしょう。麹は餅麹。麹は糖化だけでなくアルコール発酵もします。酵母も混入しているはず。



一方日本酒、うるち米で酒を作るのは大変で米を糖化する時に米を磨いだとぎ汁に乳酸菌を繁殖させ発酵液及び米を酸性側にしておき雑菌が入り込むのを防ぎます。米を蒸して米で作ったバラ麹(雑菌を排除して純粋なコウジ菌を作る為に進化したと思われます)を接種します。

麹菌とか酵母は担子菌類なので雑菌の入り難いその条件のきつい酸性液の中で米を糖化して次いで酵母が嫌気性中でアルコール醗酵行うので管理が大変です。それで老酒等は糯米で作られています。醗酵の管理技術が低い時には糯米で酒を作った方が楽なのでしょう。

何故か? 糯米は日本でも陸稲で作るケースが多かった。マイチャウでは両方あるそうです。糯米は焼き畑由来の陸稲であった可能性が考えられます。水稲の栽培化と別の道なのでしょう。

 
マイチャウへ向かう途中のローカルドライブインで小型着生ランが売られていました。
数種類ありましたが全部木に付けた着生ランです。売り易いから木に付けてぶら下げていたかと思っていたのですが、ソンラーの温泉近くの木にデンドロビュームの仲間が着生していました。売店の敷地内だったのでそれが栽培の姿だったのです。

ソンラーの市街を散策しましたら住宅地のアチコチで蘭を軒先、塀、樹木に下げて栽培しておりました。栽培品種は大型の物から小型の物まで多種多様。ある家では門を開けて見て行けと誘われました。此処では蘭を栽培する文化があるということです。多種多様ということは近辺の樹林から入手出来るということです。

サパ近辺のカットカット村のモン族の民家では家の周りにシンビジュームが栽培されて花芽が立ち上がっていました。ホテルに戻ると入口の鉢でシンビジュームが咲いていました。この狭い地域で温度差があるということです。

咲いているので分かったのですが一つは花の形が虎の頭に似ているので虎頭蘭と呼ばれている蘭です。もう一つは別の大型のシンビジュームです。これらは現在世界中で栽培されている大型シンビジュームの祖先に当たるものです。気付いて見るとこの地帯は蘭の宝庫だったのです。蘭は根に共生菌がいます。これ等はなんと担子菌類です。その担子菌類もキノコを形成する仲間なのです。先日蘭の部会で蘭は担子菌類が分解したものを栄養源として生存、成長するように進化したのではないかと発表したばかりです。そう考えると照葉樹林帯は蘭の揺籃の地だった様です。旅行前は焼き畑と水田の方が気になり、蘭と照葉樹林帯が結び付か無かったのですが、現地で気付きました。

サパ近郊のシンチャイ村で見た、藍染は液をアルカリ性にして微生物の力で還元する方法でした。冬に向い醗酵は止めていました。家の外には泥藍の塊がポリプロピレンを編んだ袋に入れられ山積みになっていました。外から持ち込まれた物か? 自分達で作ったものか? 

同じ照葉樹林帯の雲南のぺー族の藍染は琉球藍を使用したものです。トレッキングで見たのもタデ藍では無く琉球藍ですので、昔から自分達で泥藍を作っていたのでしょう。、藍染の販売量増えて出来あいの泥藍を用いるようになったのでしょうか?。

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照葉樹林帯で栽培化された物の一つに茶があります。カフェインを植物体に含みます。

一方カフェイン植物としてコーヒーがあります。これらも紫外線の強いエチオピアの高原で選択されたものです。ベトナム高原がコーヒーの栽培の適地なのは納得出来ました。



2013年12月27日金曜日

2013年12月26日木曜日

北ベトナム旅行と照葉樹林帯(2)


友の会会員の遠藤和雄さんのベトナム旅行感想記、第2回です。
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高原の街道を辿って次の地点へ移動するのですが照葉樹林帯を見ると言うよりそれを開拓した土地を見たという感じです。

高度が高いので紫外線が強かったです。開拓前の土地に何故照葉樹林帯が生成したのか? この紫外線が原因だと思いました。紫外線は生物に活性酸素を生成させます。それは細胞組織を破壊するので生物は活性酸素を除去する物質を生成するか、紫外線防御の組織を表面に生成します。


高原植物ではそれが照り葉なのでしょう。表面にクチクラ組織を作り紫外線を防御します。この照り葉の落葉が重要だと思っています。照り葉の落葉は生物による分解がしにくい物質を多く含んでいます。通常有機物は分解しやすい部分は多くの微生物により分解され、その微生物の餌となります。分解しずらい芳香族環を多く含んだ有機物は最終的には担子菌類(キノコ、カビ、酵母の仲間)により分解され腐植質(フミン酸、フルボ酸の集合体)となります。この腐植質は構造のなかに多くの官能基を含み地中の不溶の金属類、+塩類と結びつきます。(キレート化)担子菌類はこれを餌としているわけですが、この腐植質の層が重要です。



落葉樹では葉が薄いので腐植質の形成量は照葉樹より少なく、針葉樹は極端に少ないです。腐植質の量から見ると照葉樹は土地の富養化には有利に働いていると思います。例えば焼き畑では表面をやきますが、地上1m位は温度は800度Cまで上がりますが、地中は昇温もせず、地表の昇温も殆どありません。焼き畑では照葉樹が溜め込んだ栄養分がそのまま残るということです。焼き畑を放棄して再度木が生えますが、富養化が早い照葉樹林帯は焼畑には有利と考えます。

一方水田を考えると、照葉樹林帯からしみ出した水には腐植質の更に分解した低分子化した物(低分子のフミン酸、フルボ酸)が溶解してます。これには塩類が豊富に含まれるのです。このように考えると照葉樹林帯での農業は他の地帯より生産性は大きいのだと思います。たとえ他の地域で栽培化された物でも生産性の良い照葉樹林帯で広がって行ったのではないでしょうか? 

生産性の面から水利が良いところでは水田、背景に樹林を形成出来ない所が焼き畑となったのだと思います。水田を作るにしても水利、水捌けの点で照葉樹林帯の山際は低湿地より有利であったのではないでしょうか。それが棚田を作る背景と思います。この土地では自然の恵みで焼き畑で少人数で農業が成り立つので情報のない古代は手間の掛かる水田は成り立たなかったのではないか? 


この様に考えると水稲の栽培化は陸稲の水田化ではなく野生の米が自生している低湿地で採取と並行して起こり、根腐れの起きにくい管理された傾斜地に移行したのではないでしょうか? それぞれの土地条件が稲の品種の分化を促したのでしょう。(つづく)

2013年12月25日水曜日

北ベトナム旅行と照葉樹林帯(1)


第83回民族学研修の旅「ベトナム西北部 少数民族の世界へ」に参加された友の会会員の遠藤和雄さんから、旅の感想をお寄せいただきました。これから何日間にわたってその感想をアップします。

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 北ベトナム旅行と照葉樹林帯


遠藤和雄



日本文化の基層は照葉樹林文化であると信じてます。

だが未だに米の栽培化起源と照葉樹林文化のセンターの間に見えないものがあります。


昔から北ベトナムのサパには棚田があり少数民族のむらがあり見学できるとの情報があり、個人でも行く予定にはしていたところに今回のみんぱく第83回民族学研修の旅があるとのことで参加させていただきました。「みんぱくの旅行」はいつも期待以上の感激があります。


ツアーを組めるということは観光地として成立しているわけですが、成立している背景、私が興味のある部分を探るのが楽しみです

ツアー最終地のサパ周辺の棚田を見終わってから感じたことを述べたいと思います。



マイチャウに着いて、高床の宿舎の前の田圃の土をすくってみました。新しい田圃の土です。田圃も整然と整理された状況です。日本の田圃は粘土質と言われる層で表面が覆われています。そこで、ここは耕地整理をしたばかりではないかと聞きましたが、不明。

ここは白タイ族の集落で山際には溜池もあり効率の良い米の生産をしているようです。この地だけ見ますと山間で山からの水を効率良く利用しているようです。背景の山は照葉樹林で栄養塩類が豊富な山と考えます。現在は取り壊されておりますが、山際には祠の痕跡があり、山の神を祭っていたようです。白タイの人たちはこの山が米の生産の根源だと経験的に知っていたようです。宗教を否定する現政権になる前は大きな神社?であったのでしょう。

ここの田圃は日本の山間の田圃のようにライステラスという風情で田圃が徐々に落差を付けて連なっていくものです。この風情は黒タイの地域でも同じで北ベトナム全域で見られました。日本では分村等で田圃が最初につくられるのはやはり山と山に挟まれた谷津地とか谷地と言われる場所です。こういう地形では下の一方向だけせきとめれば田圃が出来るのです。耕具が少ない時代はこの形が一番効率が良かったと思います。


それから米は水田で栽培されますが、基本的には乾燥地作物で長期に根に酸素が行かないと根腐れ現象を起こします。そこで酸素供給するため適当に水を切り根を乾かす作業しなければなりません。適当な時期に水を抜く必要があるので水捌けの良い構造が必要です。それがライステラスなのです。時間が経った田圃はくり返される犂込みで稲の茎が土の中で分解して珪酸と腐植質の混合物が積層物を形成します。これがケト土です。イメージで言う粘土層です。山から沸き出す水には微量な栄養素が含まれていますが、ケト土は表面の官能基でこれを捉え土に蓄え稲に栄養を供給する役目をします。肥料を施さない時代はこの方式で米を連綿と作り続けていたわけです。


多分昔タイ族はこの米作りに有利な地形を探して分村して移動していたのだと思います。先住の人が既に水田を作っていたならそれなりの人口がいたので争いがあったのだと思いますが、実際は生産規模の小さい集団ではタイ族の方式には叶わずタイ族に吸収されたのではないでしょうか? 

帰ってから気付いたのはタイ族は盆地に進出して水田を作ると言う文章です。盆地は上の方は水捌けも良いのですが、大きい土地面積を確保するには下の方に進出する必要があります。盆地の底は水が溜まり易く、水捌けが悪いので水捌けの為の水路とか水抜き池を作るはずです。これを見ていなかった。

日本でも奈良盆地は古代では大きな池でした。これを乾かすために徐々に穴を掘っていったのです。大型工事では大量の土砂が出ます。これの捨て場所が大型古墳と考えます。開削を逐次行い奈良盆地は乾燥していったのです。河内平野も昔は低湿地帯です。蓮根くらいしか取れない土地をやはり米が取れるように乾燥化するのは穴の開削です。日本で一番湖沼が多いのはこの2つの地域です。同時に大型古墳が多いのもこの地域です。今でも金魚の養殖とかカワチブナの養殖が盛んなのでわかると思います。これも米の量産を目指した古代の人達の自然改造の結果です。昔はタイ族に大きな首領がいたと言う事と日本の米の生産量の増大と××王朝の成立は何か話が合致しますね。(つづく)


2013年12月24日火曜日

ちっこい栗 :ベトナム旅行記(その3)


ホアビン省のムオン族の市場でアルミボウルに盛った種子をみた。赤米?とおもって取り上げたらなんとクリだった。1粒は大きくとも5mmくらい。クリは外皮、渋皮があってやっかいなものだ。どうやって食べると聞いても言葉が通じないのでラチがあかない。ベトナムのフィールドワーカーとし て活躍中の樫永さんに調べてみてね、といって帰ってきた。


 「ハノイの市場でちっこいクリを見つけました。ベトナム中北部山地のゲアン...省からシェン クワン県(ラオス)にかけてのムオン族、タイ族の地域からきたもので、蒸したり茹でたりしてむいて食べるそうです」というメールが先日届いた。食 べ方としてはごく普通だがそのための手間暇を惜しまないのだ。


クリは縄文時代の主食料の1つなので、遺跡から発掘したものから各地の野性種までいろいろみたがこんな小さいのは初めてだった。縄文食の特徴は ブロード・スペクトラム、つまりなんでも食べる基本姿勢がある。同じことをベトナムでもつよく感じた。それは狩猟採集や焼畑といった(現代から見 れば)原始的な生業を営む人たちの生きかただった。

今回の旅行でもたくさんの市場を訪れたが、並べられた食材の種類が多く、中にはウワーこんなも のまで?との声をよくきいた。現代人の食品はコメ、コムギ、トウモロコシ、ウシ、ブタなどの大量生産できる品に集中しつつある。きれい、早い、 便利なことは確実なのだが、本当にそれが豊かさなのかどうか。
ぼくはそれでもいいのだけど。


(小山修三)

2013年12月9日月曜日

講義ノート :2014年1月19日(日)@観音寺

『兵庫北関入舩納帳』

-三豊・観音寺から見た中世の瀬戸内海運


はじめに


 地方で育った歴史好きの少年は教科書で日本史を読んでいて、わが故郷がでてこない、京都や東京のことばかり、私たちはいったいなんなんだ、という物たりなさを感じていた。最近、各地で町おこし、地域おこしの動きが盛んになっている。それを支えているのは郷土愛と歴史だと思う。歴史はけっして支配者のものだけではない、その地にはその地の歴史があって、その延長線上にわたし達がいるのだから。先年、大西広さんの琴弾八幡絵縁起の話を聞いたあと、そういえば『兵庫北関入舩納帳』に観音寺がでてくるなー、あれは観音寺が文献に始めてあらわれる例かもしれないと言う話になった。もちろん、私は中世は専門的ではないのだが、郷土の歴史を「民族学」の視点にたってわかりやすく話すことができれば郷土の文化振興に役立つのではないかと考えた。

 1.みとよ・観音寺の時代背景


 観音寺は財田川の氾濫原の洲にできた町であることが、地図を見るとよくわかる。河口の南側が町、北は八幡神社と神恵院の聖域、川上は三架橋までか。町には鍛冶、大工、市場、歓楽街があり、後背地に穀倉地帯の三豊平野の坂本、柞田、大野原などの律令時代以来の村があった。それは式内社の分布を見れば分かる。そんな立地が中世の港町(漁業と運輸)として好適で、経済・文化の入口として大きな役割を果たした。具体的には、神恵院の金堂、涅槃像、不動明王図、琴弾八幡絵縁起などのおもな重要文化財はほとんどこの頃につくられたり、持ち込まれている。
『海瀕舟行図』(1680)より 

2.『兵庫北関入舩納帳』とは


 室町時代の文書。文安2年(1445)一月から翌年一月までの約1年間、東大寺が兵庫北関(現在の神戸港)における入船と関銭(税)を記録したもので、船ごとに船籍地、積載品、数量、関銭、納入日、船頭、荷受人が簡潔に書かれている。主な積荷は米(3.3万石)、塩(10.8万石)、木材(3.6万石)だが、ほかにタイ、イワシ、ナマコ、イカなどの海産物、油、壺、などであった。瀬戸内海は当時の海運の大動脈だったことがわかる。
林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』(1981)より、観音寺の記載があるページ


3.瀬戸内海運網


 1)当時の船は小型船(50石以下、および100石まで)、中型船(400石まで)、大型船(1000石以上のものも)にわけられる。摂津、播磨、備前など近距離は小型、豊後、長門、安芸など遠距離は大型である。讃岐からの船は多くが小・中型だった。

 2)運んだ品は遠距離からは大量の米、塩、近距離は米塩はもちろんだが魚やこまごまとした筵、布などの生活必需品だった。阿波から土佐にかけてはほとんどが木材だった。江戸時代になって発達する北前船や菱垣廻船、樽廻船の主役となる酒や味噌がないのはまだ産業として発達してなかったからだろうか。


図は、武藤直「中世の兵庫津と瀬戸内海水運」林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』(1981)より
 

4.みとよ、観音寺について本書から分かること


 1)観音寺は四国本土ではもっとも西の港だった。川之江、三島、今治、松山などは書かれていない。その原因の一つは当時の瀬戸内海の海運が備讃、芸予の島々が掌握されていたからだろう。讃岐は当時、細川氏の勢力下にあった。

 2)香川県では宇多津(47回)が最も記載が多く、塩飽(35)、小豆島(23)、引田(21)多度津(12)、野原(13)などがある。観音寺が4回あらわれ、仁尾(丹穂)も2回ある。地理的には不利であったことがわかる。

 3)観音寺と仁尾から運ばれた産物は、米、赤米、マメ、ソバ、コムギ、山崎コマ?、木で、香川の他の地域と共通しているが、品目が少ない。赤米は2級米で庶民用、日照りがちの讃岐に多い品である。

 4)船と港:当時の船は積載量から見て小型船だった。財田川の河口にあった港は水深が浅く千石船のような大型のものは入らなかったのだろう。産物も当時の流通ネットワークのなかではマイナーな品で、量的にも少なく、主産業地となれなかったのだろう。そのため、商いの隙間を狙う傾向が読み取れる。小規模だが、機動性を生かし、したたかに生きる方法は今日にも通じるものがある。

 5)観音寺・仁尾の船の荷受人はすべて豊後屋である。豊後屋は備讃、淡路を勢力圏とした有力な問丸で、海産物を主に扱う、いわば有力総合商社である。どうやってワタリをつけたのだろうか、船の行く先がすべて兵庫だけではなかったはずだから、豊後屋の果たした役割を考えてみるのも面白いと思う。
琴弾宮八幡絵縁起
 

5.現代との繋がりについて


 中世ははるか昔のことなのだが、観音寺の町を歩いていると、その時代から江戸時代を経て、連綿と続いてきた私たちの祖先の生活の歴史の影をみる。私としては50年以上前の少年時代の記憶と重さなるのでなおさらである。

 裁判所のあたりでは、海産物問屋、ちくわやくずしの工場、倉庫、小さな祠、堤防にそってとめてあったウタセ船。満潮になるとその下をくぐって泳いだものだ。川上へむかって広がる旅館、料理店、飲屋、検番から芸者さんがでてきた。そんなたたずまいは港町の性格がもとになっているのである。そういえば、私の友達だった植木さんちは、回漕店でトラックにかわるまえは海運だった。築港から出ていった加藤汽船。

 風景もそうだ、はげ山だった八幡山は頂上のお宮がよく見えた、有明浜からは伊吹島、九十九山、室本、蔦島、紫雲出山がみえ、岬をまわると塩飽の島々、そして神戸へ。波や風の状況を見ながら日々の生活を送っていたのだろう。                               
 
(小山 修三)

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これは、下記講演のためのノートです。
興味のある方は、どうぞお越しください。

日時:2014年119日()13:30~15:30
場所:観音寺信用金庫本店6階
観音寺市観音寺町3377-3

2013年12月4日水曜日

ハノイの交差点 :ベトナム旅行記(その2)

信号が変わるとどどっとバイクが流れ出す。タクシー、トラック、自転車、手押しの屋台車。そのスキをついて横断する人、すさまじいクラクション。パワーあふれる、整然とした混沌というべきか。

案内人のMさんはハノイの庶民サラリーマンのトップ層に属するだろう、ちいさな旅行会社の支店長、日本にもなんどもきたそうだ。マンションに住み、子ども2人を(高級な)私立小学校に通わせ、HONDA(コピーの中国製HONGDAではない)のバイクをのり回しているが、そのうち金がたまったら乗用車を買うんだと意気込んでいる。

「やめなさいよ、中国を見なさい。空気はわるくなるし、ハノイだってそのうち交通マヒをおこして車は動けなくなる、あんたたちはこの辺でやめときなさい。それで地球が救われる」とからかうと、「それは無理無体というもの、私たちは日本式生活を目指してこうして夜も日もおかず働いてるんだから」と受け流された。モータライゼイションに関していえば、山地の村でも確実に進行しており、もう止めることはできないようだ。

経済発展ー(石油・ガス・原発)ー自然破壊という文明開化(?)の道は日本がモデルとなって、発展途上の国々を引っ張ってきた。だから私たちは(まして気楽でたのしい観光客として)したり顔で大口をたたくのもどうかと思った。
 
(小山修三)

 

2013年12月1日日曜日

100万ドン長者 :ベトナム旅行記(その1)

ハノイ空港着14:10(日本時間16:10)

小腹がすいたので何か食べよかなーとお店をのぞいたら、おいしそうなサンドが。
 
ところが値段はなんと48,000ドン、数字の大きさに圧倒されてやめました。あとで聞くと実は240円、つまり0を2つとって2で割ればよい。サンスウに弱い私は頭が混乱して、その後は付き人にたかって歩くことにしました。心の底には1ドル360円時代のアメリカ行での原体験が影を引いているのだと思います。でも自国の経済(円)が安定しているのは心強いこと、旅行が終わる頃にはオレは100万ドン長者だと威張っていたので5000円ですかとみんなに笑われました。 

ベトナムの通貨はもともとこんなインフレ的数ではなかったのですが、うちつづく戦争と、とくに1986年からのドイモイ(経済刷新)によってこうなったと思われます。それでも貨幣経済は浸透していて少数民族のムラでもみんな平気でやっているので、デノミで経済をいじることもないとおもいます。

(小山修三)