2013年12月9日月曜日

講義ノート :2014年1月19日(日)@観音寺

『兵庫北関入舩納帳』

-三豊・観音寺から見た中世の瀬戸内海運


はじめに


 地方で育った歴史好きの少年は教科書で日本史を読んでいて、わが故郷がでてこない、京都や東京のことばかり、私たちはいったいなんなんだ、という物たりなさを感じていた。最近、各地で町おこし、地域おこしの動きが盛んになっている。それを支えているのは郷土愛と歴史だと思う。歴史はけっして支配者のものだけではない、その地にはその地の歴史があって、その延長線上にわたし達がいるのだから。先年、大西広さんの琴弾八幡絵縁起の話を聞いたあと、そういえば『兵庫北関入舩納帳』に観音寺がでてくるなー、あれは観音寺が文献に始めてあらわれる例かもしれないと言う話になった。もちろん、私は中世は専門的ではないのだが、郷土の歴史を「民族学」の視点にたってわかりやすく話すことができれば郷土の文化振興に役立つのではないかと考えた。

 1.みとよ・観音寺の時代背景


 観音寺は財田川の氾濫原の洲にできた町であることが、地図を見るとよくわかる。河口の南側が町、北は八幡神社と神恵院の聖域、川上は三架橋までか。町には鍛冶、大工、市場、歓楽街があり、後背地に穀倉地帯の三豊平野の坂本、柞田、大野原などの律令時代以来の村があった。それは式内社の分布を見れば分かる。そんな立地が中世の港町(漁業と運輸)として好適で、経済・文化の入口として大きな役割を果たした。具体的には、神恵院の金堂、涅槃像、不動明王図、琴弾八幡絵縁起などのおもな重要文化財はほとんどこの頃につくられたり、持ち込まれている。
『海瀕舟行図』(1680)より 

2.『兵庫北関入舩納帳』とは


 室町時代の文書。文安2年(1445)一月から翌年一月までの約1年間、東大寺が兵庫北関(現在の神戸港)における入船と関銭(税)を記録したもので、船ごとに船籍地、積載品、数量、関銭、納入日、船頭、荷受人が簡潔に書かれている。主な積荷は米(3.3万石)、塩(10.8万石)、木材(3.6万石)だが、ほかにタイ、イワシ、ナマコ、イカなどの海産物、油、壺、などであった。瀬戸内海は当時の海運の大動脈だったことがわかる。
林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』(1981)より、観音寺の記載があるページ


3.瀬戸内海運網


 1)当時の船は小型船(50石以下、および100石まで)、中型船(400石まで)、大型船(1000石以上のものも)にわけられる。摂津、播磨、備前など近距離は小型、豊後、長門、安芸など遠距離は大型である。讃岐からの船は多くが小・中型だった。

 2)運んだ品は遠距離からは大量の米、塩、近距離は米塩はもちろんだが魚やこまごまとした筵、布などの生活必需品だった。阿波から土佐にかけてはほとんどが木材だった。江戸時代になって発達する北前船や菱垣廻船、樽廻船の主役となる酒や味噌がないのはまだ産業として発達してなかったからだろうか。


図は、武藤直「中世の兵庫津と瀬戸内海水運」林屋辰三郎編『兵庫北関入舩納帳』(1981)より
 

4.みとよ、観音寺について本書から分かること


 1)観音寺は四国本土ではもっとも西の港だった。川之江、三島、今治、松山などは書かれていない。その原因の一つは当時の瀬戸内海の海運が備讃、芸予の島々が掌握されていたからだろう。讃岐は当時、細川氏の勢力下にあった。

 2)香川県では宇多津(47回)が最も記載が多く、塩飽(35)、小豆島(23)、引田(21)多度津(12)、野原(13)などがある。観音寺が4回あらわれ、仁尾(丹穂)も2回ある。地理的には不利であったことがわかる。

 3)観音寺と仁尾から運ばれた産物は、米、赤米、マメ、ソバ、コムギ、山崎コマ?、木で、香川の他の地域と共通しているが、品目が少ない。赤米は2級米で庶民用、日照りがちの讃岐に多い品である。

 4)船と港:当時の船は積載量から見て小型船だった。財田川の河口にあった港は水深が浅く千石船のような大型のものは入らなかったのだろう。産物も当時の流通ネットワークのなかではマイナーな品で、量的にも少なく、主産業地となれなかったのだろう。そのため、商いの隙間を狙う傾向が読み取れる。小規模だが、機動性を生かし、したたかに生きる方法は今日にも通じるものがある。

 5)観音寺・仁尾の船の荷受人はすべて豊後屋である。豊後屋は備讃、淡路を勢力圏とした有力な問丸で、海産物を主に扱う、いわば有力総合商社である。どうやってワタリをつけたのだろうか、船の行く先がすべて兵庫だけではなかったはずだから、豊後屋の果たした役割を考えてみるのも面白いと思う。
琴弾宮八幡絵縁起
 

5.現代との繋がりについて


 中世ははるか昔のことなのだが、観音寺の町を歩いていると、その時代から江戸時代を経て、連綿と続いてきた私たちの祖先の生活の歴史の影をみる。私としては50年以上前の少年時代の記憶と重さなるのでなおさらである。

 裁判所のあたりでは、海産物問屋、ちくわやくずしの工場、倉庫、小さな祠、堤防にそってとめてあったウタセ船。満潮になるとその下をくぐって泳いだものだ。川上へむかって広がる旅館、料理店、飲屋、検番から芸者さんがでてきた。そんなたたずまいは港町の性格がもとになっているのである。そういえば、私の友達だった植木さんちは、回漕店でトラックにかわるまえは海運だった。築港から出ていった加藤汽船。

 風景もそうだ、はげ山だった八幡山は頂上のお宮がよく見えた、有明浜からは伊吹島、九十九山、室本、蔦島、紫雲出山がみえ、岬をまわると塩飽の島々、そして神戸へ。波や風の状況を見ながら日々の生活を送っていたのだろう。                               
 
(小山 修三)

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これは、下記講演のためのノートです。
興味のある方は、どうぞお越しください。

日時:2014年119日()13:30~15:30
場所:観音寺信用金庫本店6階
観音寺市観音寺町3377-3

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