2013年12月25日水曜日

北ベトナム旅行と照葉樹林帯(1)


第83回民族学研修の旅「ベトナム西北部 少数民族の世界へ」に参加された友の会会員の遠藤和雄さんから、旅の感想をお寄せいただきました。これから何日間にわたってその感想をアップします。

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 北ベトナム旅行と照葉樹林帯


遠藤和雄



日本文化の基層は照葉樹林文化であると信じてます。

だが未だに米の栽培化起源と照葉樹林文化のセンターの間に見えないものがあります。


昔から北ベトナムのサパには棚田があり少数民族のむらがあり見学できるとの情報があり、個人でも行く予定にはしていたところに今回のみんぱく第83回民族学研修の旅があるとのことで参加させていただきました。「みんぱくの旅行」はいつも期待以上の感激があります。


ツアーを組めるということは観光地として成立しているわけですが、成立している背景、私が興味のある部分を探るのが楽しみです

ツアー最終地のサパ周辺の棚田を見終わってから感じたことを述べたいと思います。



マイチャウに着いて、高床の宿舎の前の田圃の土をすくってみました。新しい田圃の土です。田圃も整然と整理された状況です。日本の田圃は粘土質と言われる層で表面が覆われています。そこで、ここは耕地整理をしたばかりではないかと聞きましたが、不明。

ここは白タイ族の集落で山際には溜池もあり効率の良い米の生産をしているようです。この地だけ見ますと山間で山からの水を効率良く利用しているようです。背景の山は照葉樹林で栄養塩類が豊富な山と考えます。現在は取り壊されておりますが、山際には祠の痕跡があり、山の神を祭っていたようです。白タイの人たちはこの山が米の生産の根源だと経験的に知っていたようです。宗教を否定する現政権になる前は大きな神社?であったのでしょう。

ここの田圃は日本の山間の田圃のようにライステラスという風情で田圃が徐々に落差を付けて連なっていくものです。この風情は黒タイの地域でも同じで北ベトナム全域で見られました。日本では分村等で田圃が最初につくられるのはやはり山と山に挟まれた谷津地とか谷地と言われる場所です。こういう地形では下の一方向だけせきとめれば田圃が出来るのです。耕具が少ない時代はこの形が一番効率が良かったと思います。


それから米は水田で栽培されますが、基本的には乾燥地作物で長期に根に酸素が行かないと根腐れ現象を起こします。そこで酸素供給するため適当に水を切り根を乾かす作業しなければなりません。適当な時期に水を抜く必要があるので水捌けの良い構造が必要です。それがライステラスなのです。時間が経った田圃はくり返される犂込みで稲の茎が土の中で分解して珪酸と腐植質の混合物が積層物を形成します。これがケト土です。イメージで言う粘土層です。山から沸き出す水には微量な栄養素が含まれていますが、ケト土は表面の官能基でこれを捉え土に蓄え稲に栄養を供給する役目をします。肥料を施さない時代はこの方式で米を連綿と作り続けていたわけです。


多分昔タイ族はこの米作りに有利な地形を探して分村して移動していたのだと思います。先住の人が既に水田を作っていたならそれなりの人口がいたので争いがあったのだと思いますが、実際は生産規模の小さい集団ではタイ族の方式には叶わずタイ族に吸収されたのではないでしょうか? 

帰ってから気付いたのはタイ族は盆地に進出して水田を作ると言う文章です。盆地は上の方は水捌けも良いのですが、大きい土地面積を確保するには下の方に進出する必要があります。盆地の底は水が溜まり易く、水捌けが悪いので水捌けの為の水路とか水抜き池を作るはずです。これを見ていなかった。

日本でも奈良盆地は古代では大きな池でした。これを乾かすために徐々に穴を掘っていったのです。大型工事では大量の土砂が出ます。これの捨て場所が大型古墳と考えます。開削を逐次行い奈良盆地は乾燥していったのです。河内平野も昔は低湿地帯です。蓮根くらいしか取れない土地をやはり米が取れるように乾燥化するのは穴の開削です。日本で一番湖沼が多いのはこの2つの地域です。同時に大型古墳が多いのもこの地域です。今でも金魚の養殖とかカワチブナの養殖が盛んなのでわかると思います。これも米の量産を目指した古代の人達の自然改造の結果です。昔はタイ族に大きな首領がいたと言う事と日本の米の生産量の増大と××王朝の成立は何か話が合致しますね。(つづく)


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