2013年8月12日月曜日

ヤマタイ国のくすり 桃仁



 2009年に纏向遺跡で大きな建物の横にある溝から、2000個以上のモモの種が一括して(盛ったらしいカゴとともに)発掘された。纏向遺跡は女王ヒミコの都の跡ともいわれているが、伴出する遺物の年代から見てヒミコと同時代である可能性が高い。


Photo by tin.G (via flickr)


なぜこんなにたくさんのモモが集められたのか?現在のわたしたちは「おいしい水蜜桃」のイメージが強いので神にささげられた供物をあとで食べたのだろうとおもってしまう。しかし、平安から鎌倉にかけての頃は甘みが少ないので果物としての評判はあまり良くなかったと云う。モモについては神話や伝承にかかわる話は多い。考古学者は、不明のものについては祭祀や呪術などとして説明をはしょることが多い。しかしこの場合はもっと実用品として説明ができるのではないか。

 私は、これは桃仁(桃の種の核)を取り出す製薬加工のプロセスだと考える。モモの原産地は中国の黄河上流、日本の遺跡から出土するのは、縄文時代の後期からである。その後、弥生時代から次第にその数が増えてゆく。

時代がさがり『延喜式』(927)には、典薬寮の諸国薬料の項にはほとんどの国から(陸奥、出羽、信濃、上野、越後、などをのぞく)桃仁が0.36斗と量まで明記して集められている。

 桃仁はAD1~2世紀に出来上がった漢方書に記載されており、のちに日本の国が公式に認めた薬である。現在も生薬として使われており、消炎、沈痛、特に血の巡りに効があるので婦人病に欠かせない薬とされている。ほかに花や葉も浴用剤につかわれるが、成分がきついので、素人は注意とある。

 つまりモモは果物ではなく薬として大陸から持ち込まれ、栽培されたのである。弥生時代には文字、金属、水田稲作農耕など、それまでになかった文物が大陸から日本に持ち込まれている。医薬品は不老長寿を夢見る人間にとって最も重要なものの1つだったのである。
(小山修三)

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