12月17日
爆弾低気圧が日本列島を襲うことはわかっていたが、あえて飛騨に行ってみようと思った。1970年末に、ヒダゴフドキ・データベース・プロジェクトをたちあげ、定年後は世界文化センターのアドバイザーをやるなど、飛騨は私の学問上のふるさとみたいなところだ。今年は公私共にいろいろあって休みが必要とはやくから計画していたし、時間的にも余裕がある。防寒具に身を固めて行くことにした。
11:00am京都駅、広島付近で降雪のため新幹線は30分遅れ、それでも高山までの切符は問題なく買えた。ところが名古屋駅につくと高山線はいつ出るかわからないという。ヤレヤレ、きしめん食べて引返すのか、えらい高いきしめんだ。ようやく2時前に「15:43に下呂まで特急ひだ号が出る」という掲示が出た。それより北は倒木のため不通。そこで今夜は下呂泊まりとする。
下呂の位置する益田郡は脊梁山脈の南斜面なので太平洋型気候で暖かくタケやチャが育つ。ふつう雪は少ないのだが、ここもめずらしく大雪だった。外は真っ暗、道はツルツル、なんとか宿にたどり着く。明日はどうなることやら、マーいいか。
↑雪の下呂駅
12月18日
快晴、昨夜はまた荒れたようだ。村内放送があったがよく聞こえなかったので、駅までこけつまろびつ雪道を歩いて情報収集に。本日、飛騨金山付近も倒木のため不通とのこと。JRでの進路も退路も断たれたので、宿でゆっくりすごすことにする。酒とひだ牛のすき焼き。野麦峠と言う麦焼酎があった。飛騨はヒエの国だったから、ヒエ焼酎を造れば売れるかもしれないと思う。下呂温泉はいい湯、久しぶりにぐっすり寝た。
12月19日 快晴。
ローカルの濃飛バスが健闘しており、これで高山に行くことにした。道路状況の無線がしょっちゅう入る。高山盆地の入り口の宮峠までたどり着いたが、突然この先倒木で通行止めになったとの連絡。来た道を少し戻って近年完成した美女街道へ迂回。地元の人は老人パスをつかって小刻みにバスを活用している。新聞では大雪で住民が悲鳴、とセンセーショナルに書いているが、コンビニのある村では棚が空っぽになったところもあるものの、小集落には薪を積んだ家が多いことからみられるように、基本的な冬の構えがよく出来ていることがわかる。隣に座っていた地元の人が、「倒木は停電になるので困る。人手不足で環境整備ができてないからだ。もっとも昔は歩いていたので倒木など踏み越えていったものだ。停電になっても何日かは十分もつ」と言っていた。結局、1時間半のところ2時間半。いそがぬ旅はかつて、『斐太後風土記』記載の昔のムラを一つ一つ訪ね歩いたころを思い出し懐かしかった。
高山は大雪で客足はまばら、それでも雪に埋もれた古い街並に外国人観光客が目立つ、貸し切りバスで来ているのだろうか。飛騨高山まちの博物館、高山市史編纂室を訪れ昔の仲間と話す。彼らはいまや市の文化財や観光の中心になって活躍しているので、緊急事態で気もそぞろ。楽しみにしていた夜の部はまた改めてということになった。
夜はなじみの居酒屋かっぱへ。飛騨ネギ、鮎の一夜干し、イカ、漬物ステーキ。
↑高山一之町の雪
『斐太後風土記』にはアユキョウという食品が記されていて、正体が何ものかと探し回っていた時この店で、それはアユの漬物でありここでつくっていると言われ、実物を食することができた。その話をしたら、稀少品で残り少ないアユキョウを花びらのように薄く切った数片を出してくれた。今年は川があれてアユが小さくてと言う。さすが高山、江戸時代の味、今回の旅の目的はこれで果たしたのである。
12月20日
高山線が名古屋まで開通、富山へも。観光の町はJRが動脈のようなもので、週末にあわせ復旧作業にはげんだのだろう。すれちがう対向の特急はまずまずの入りだった。乗客がこちらの列車を指差しなにか言っている様子。名古屋駅で降りた列車の屋根を見て、なるほど、これだけの雪を積んで走っていたら話題になったはずだと思った。4時には家にかえり、またぐっすり寝た。これも飛騨効果だろう。
↑名古屋に着いた列車の屋根の雪
(小山修三)
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