しかし、あの頃、経済人、政治家、官僚たちは途方にくれていたのではなかろうか。彼らの発言は瞬時に世界にむけて発信され、失言があればたたかれる、途上国への援助金は年々膨れ上がる一方だが、空回りも多いという。そこで梅棹さんは「日本人は国際感覚が不足している、もっと世界にでて現地で経験をつむこと、それには民族学が最も適している」と主張したのである。
みんぱくでおこなう国際会議は「第一線の学者を呼び、一流のもてなしをする」というのが梅棹さんの思いだった。そのために湯浅さんは欠かせない人だった。
早くアメリカでジャーナリストとして活躍したこと、帰国して京都国際会館の業務を切り回していたこと、財界、学会、ソロプチミストなどとのひろい交友関係を活用して千里文化財団をたちあげ、めざましい成果を上げたことは周知の事実である。
去る2月28日の昼頃、逝去の電話を受けたとき、原稿がはかどらず昼夜逆転していた私はまだ寝ていた。予想もなかった知らせなので、ぼんやりしたまま、またベッドに帰ったのだが、湯浅さんとご一緒したときのことがつぎつぎ浮かんできて涙が止まらなくなった。すっきりと立ち姿が美しく、育ちのよさが自然とあらわれたおきゃんな言葉と行動が印象的な人だった。
(小山修三)
[写真]
『月刊みんぱく』1978年3月号の「館長対談」に、湯浅叡子さんが登場しています。梅棹忠夫みんぱく初代館長との対談で、のちに中公新書の『民博誕生』に収録されました。
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