2014年2月21日金曜日

小山センセイの縄文徒然草 新記事アップ!

小山センセイの縄文徒然草、第32回は

「女性と服装」

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=6884

すっかりベトナム贔屓になっているキューカンチョーです。どうぞよろしく。

2014年2月19日水曜日

こんな本を読みました: 『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』


工藤雄一郎・国立歴史民俗博物館編 2014

『ここまでわかった! 縄文人の植物利用』

 

ひさしぶりに、読んでコーフンした本だった。もちろん内容がそうなのだが、縄文人の植物との対応の問題に長らくかかわってきた研究者としてさまざまな人や出来事がおもいうかぶからである。
 
私が考古学を学び始めた頃は、縄文時代とは狩猟採集の段階で、米や野菜などは弥生時代に大陸から伝わったというのが定説だった。ところが、最近の発掘や分析技術の発達によってそんな常識は覆されてしまった。縄文人の植物利用の解明に力を注いでいる(これまでの土器や石器だけではなく、顕微鏡を通して見る微細な自然遺物を扱う)若い研究者の数が増え、その成果が一般書の形で出はじめたからである。(ほかには、小杉康ほか2009『縄文時代の考古学3』同成社)
 

縄文人が作ったダイズとアズキ

食用植物としてはコメ、クリ、マメが論じられているが、そのなかで驚いたのはマメ類についての報告だった。従来、マメ類については考古学的な同定が進んでいなかった。私自身にも苦い経験がある、1979年のAffluent Foragers(採集民の成熟)のシンポジウムをまとめるとき、当時福井県鳥浜遺跡で(日本で初めて)発見されたマメを日本ではリョクトウと同定していたが、それについて、共編者のトマス氏から「そんなはずはない、あれはインドあたりのもの」というクレームが来た。こちらは専門家じゃないし、ドタバタした後なんとかごまかしたのだが、こちらの負けかなという気がしていた。もう一つあげれば、丹波黒豆の話をしていた時「身の黒い大豆は大陸ではみないんだよね」といった専門家の言葉だった。
最近の成果はそのあたりのモヤモヤを見事に解明した。決め手となったのは圧痕レプリカ法、土器面に着いた圧痕にシリコンを詰めて「かたち」を取り出す方法である。これによって、マメの構造(臍、縫線、縦溝)が明らかにされ、例数も飛躍的に増えた。その結果、はじめ中部日本で野生種として利用していたツルマメ(ダイズ)とケツルアズキ(アズキ)を4500年前(縄文中期)から栽培種として育てるようになり、それが西日本に広がったことを明らかにしたのである。しかも、栽培化の動きは中国や韓半島でもほぼ同時に起こっていることも興味深い。
 

栽培植物と農耕コンプレックス

豆類はタンパク源として重要ではあるが主食とはならない。デンプン質の穀類や繊維、ビタミン類の野菜と組み合わせ育てられのが(コンプレックス)のが農耕としてのあるべき姿だろう。日本産にこだわるならば穀類としては、ヒエがある(北海道、東北地方が中心というズレがあるが)。また、野菜の候補としてエゴマがあり、ダイコンやカブなど菜種類(Brassikka)もあるが、例が少なくまだ明らかにされていない。これらについては、本書ではあまり触れられていないが、将来、縄文農耕に対する理解が深まるにつれて、是非考えるべき問題となるであろう。
 
(小山修三)
 

2014年2月6日木曜日

日本考古学の変容


125日(土)に金沢大学の国際資源研究センターの公開セミナー「歴史復原画と考古学」http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/20131203.htmlに参加して、日本の考古学が大きく変わりつつあることを実感しました。

http://crs.w3.kanazawa-u.ac.jp/info/img/20140125_ccrs_seminar_2.pdf
もともと考古学は遺跡や出土物を研究する、専門家だけのものでした。しかし第二次大戦後、「新しい歴史」を作り上げる必要に迫られた政府は、登呂遺跡(弥生時代)や大湯環状列石(縄文時代)などの発掘 をおこない、小中学生までが参加するようになりました。それをマスコミが書きたてたために一般人も盛りあがりました。その後、文化財保護 法がつくられ、遺跡が破壊されるときは主体者が調査をすることが義務付けられました。それによって日本は世界有数の発掘大国になりました。経済成長による大規模な土地開発はほとんどが県や市町村などの地方行政が費用を負担して発掘にあたることになったのです。

 このような、日本の考古学の現場は今どうなっているのか。まず政府は日本という国の「正史」として確立しておきたい。アイヌ、沖縄、在日コリアンなどのアイデンティをはじめ、北方領土、尖閣、竹島の国境問題など掘り起こせばいろいろあるのですが、それでも比較的単純なかたちにまとめられ ています。これはアメリカを始めとする、世界の国が多民族、多文化という性格をもつゆえに深刻な問題となっているのとは対照的だといえるでしょう。次に地方政府のかかわりかたです。遺跡が(多大の費用をかけて)発掘されたあとどう保存・管理・運営すればいいのか。普通は公園にして、そこに公民館とか博物館を作って住民の文化・福祉のために役立てようとしています。それをより積極的に考えれば、遺跡を観光のキャッチにして地域おこしを目指すこともできます。地域おこしは住民の願いでもあるのですから。

金沢大学の「資源センター」はそのような絡みに注目して、考古学者、(国、県、市町村)行政、および住民との関係を文化人類学的に解き明かそうと努力しているようです。この点では九大の溝口さんなどがパブリック・アーケオロジー(public archeology)というキャッチで同じ問題に迫ろうとしていることとも連動しているとおもいます。

私は誰もが楽しめる考古学であってほしいと考え、1980年代の初めから、縄文時代の人々の生活を絵画や実際の服装で表すことを、服装学の松本 敏子先生や、アーテイストの安芸早穂子さんとさかいひろこさんとコラボしながら岐阜県高山市久々野町、福井県鳥浜遺跡、三内丸山遺跡などでやって きました。この公開セミナーではその経過を報告しました。


(小山修三)

2014年1月30日木曜日

情報の時代 iPho?: ベトナム旅行記(その5)

工業の次は情報の時代が来ると梅棹さんが喝破したのは1963年だった。世界で最も早かったのではなかろうか(「情報産業論1963、『情報の文明学』1988)。はたして今は、アイフォーン(スマホ)の時代、情報化の波を肌で実感するようになった。

驚いたことにベトナムがそうだった。山間の小さな町の商店にもスマホの店があるし、ちまちました露天の店で昼食をとっている若者、それに子どもたちまで機器をもっている。「すごいネー」と言ったら、値段や使用料が安いからでしょうと現地ガイドは言った。

ツイッターなどによる情報氾濫は中国、ロシア、中東で騒乱を引き起こし政府転覆まで起きている。だから政府は情報氾濫に神経質になり、抑えこもうと強権をふるっている。

ところが、社会主義国のベトナムは少数民族の国だし、経済格差もけっこう目に付くのだが、それでもうっとうしい情報管理の話は聞かないし、不穏な騒乱の兆しも見えない。人々がゆるやかに日常生活を楽しんでいるようにみえるのは、悲惨だったあの戦争をのりこえドイモイ政策による右肩上がり経済の将来に望みを託しているからだと思う。

ところで、フォーはベトナムの麺。街道沿いの町並みには必ず複数の店が並んでいて朝、昼となく込み合っている。それをみてサヌキうどんの本場、わが故郷を思いだした。ちょっと立ち寄った観光客にその詳細については分かるはずはないのだが、戦争も政策も庶民の日々の暮らしには大した関係はない。四国の片田舎で少年時代を送った私は、庶民とはなかなかしぶといもんだとなつかしく、共感を覚えた。
 
(小山修三)

 
 

写真説明 上から
 
①お土産のTシャツ iphoとはフォーとアイフォーンとかけてある。

②ケータイを売る店はどんな小さな町にも

③フォーの店

2014年1月23日木曜日

ベトナムの焼畑村(2) :小山センセイの縄文徒然草に新記事アップ!

青森県のJOMONFANのサイトに連載中の縄文徒然草に、新記事「ベトナムの焼畑村(2)食の豊かな村」が掲載されました。どうぞよろしく。


http://aomori-jomon.jp/essay/?p=6826

観音寺のしち~ぼ~いが、ベトナムの農村になじんでいる写真もお楽しみくださいませ (^o^)


2014年1月10日金曜日

国境: ベトナム旅行記(その4)

ベトナム北部は中国と国境を接している。ライチャウの町には川を挟んで大きな橋がかかっていて、対岸は中国・河口市である。検問所の付近に銃を肩にした兵士が立っているのがみえる。国境とは自然とは別の人工的な行政区分だがそのために雰囲気ががらりと変わる。

かつてのベルリンの壁のように一発触発のホットなもの、オランダのように「酔っ払ってそっちに倒れるとベルギーに行っちゃうよ」と言うほどに緊張感のないもの。南米からアメリカに飛んだ時は、メキシコまでは道路や家が自然の地形に沿って作られていたが、鉄網の北のアメリカに入ると道路や町の区画などすべてが直線的になるのに驚いたものだ。一般生活者にとっては国境とはじゃまっけなモノで、遠く海に隔てられているので関係ないと思っていた尖閣諸島や竹島が政治家の手にかかると大問題となるのである。

ベトナムと中国の国境は自然条件としてはほとんど差はないけれど、やはり現在の経済力の差が歴然とあらわれていて、中国側の建物は大きく、高く圧倒的である。

観光がこれからの主産業になるのは世界の常識である。だからベトナムとしては、中国の経済力をうまく利用すれば利があるはずだ。ところが、町の様子は意外と消極的で広告その他に漢字がほとんどなく、ローマ字のベトナム語に固執しているのが明らかだ。そういえば、南のホーチミン市でも英語の看板が意外と少なかった。

それには歴史に深くかかわっていると思う。ベトナムは過去には征服や戦争によってくりかえし甚大な被害をこうむった。今でも漫然と対応していれば、グローバル化の波に流されて中国化やアメリカ化は避けられないだろう。政府は国民のアイデンティティを明確にし、それに誇りをもたせることが必要だと考えているようだ。苦難に耐え、しぶとく生き残ってきたベトナム人のパワーには感動を覚えるほどである。彼らは決して滅びない。これがこの短い旅の間にベトナム贔屓になってしまった私の感想である。 

(小山修三)

2013年12月28日土曜日

北ベトナム旅行と照葉樹林帯(3)


友の会会員の遠藤和雄さんのベトナム旅行感想記、第3回です。
----------



文化と言うものは生活条件の中で生まれるものです。

照葉樹林帯では腐植質の形成に担子菌類が大きな役割をしているので、その目で見ると樹木のリグニン分(これもポリフェノールの1種でキノコにしか分解できない)を食べるキノコが多いはずと思いました。

やはり何処の市場でも豊富なキノコが出回り、食されています。樹林に入れば簡単に採取出来るのでしょう。
市場で見た麹(これもカビの仲間)に関しては餅麹で小麦粉を原料として麹菌接種で作っているようです。マイチャウの民俗舞踊時に飲んだ酒は長粒種の赤糯米で作られてたようです。アミロペクチンで構成される糯米は簡単に糖化され易く酒になり易いからでしょう。麹は餅麹。麹は糖化だけでなくアルコール発酵もします。酵母も混入しているはず。



一方日本酒、うるち米で酒を作るのは大変で米を糖化する時に米を磨いだとぎ汁に乳酸菌を繁殖させ発酵液及び米を酸性側にしておき雑菌が入り込むのを防ぎます。米を蒸して米で作ったバラ麹(雑菌を排除して純粋なコウジ菌を作る為に進化したと思われます)を接種します。

麹菌とか酵母は担子菌類なので雑菌の入り難いその条件のきつい酸性液の中で米を糖化して次いで酵母が嫌気性中でアルコール醗酵行うので管理が大変です。それで老酒等は糯米で作られています。醗酵の管理技術が低い時には糯米で酒を作った方が楽なのでしょう。

何故か? 糯米は日本でも陸稲で作るケースが多かった。マイチャウでは両方あるそうです。糯米は焼き畑由来の陸稲であった可能性が考えられます。水稲の栽培化と別の道なのでしょう。

 
マイチャウへ向かう途中のローカルドライブインで小型着生ランが売られていました。
数種類ありましたが全部木に付けた着生ランです。売り易いから木に付けてぶら下げていたかと思っていたのですが、ソンラーの温泉近くの木にデンドロビュームの仲間が着生していました。売店の敷地内だったのでそれが栽培の姿だったのです。

ソンラーの市街を散策しましたら住宅地のアチコチで蘭を軒先、塀、樹木に下げて栽培しておりました。栽培品種は大型の物から小型の物まで多種多様。ある家では門を開けて見て行けと誘われました。此処では蘭を栽培する文化があるということです。多種多様ということは近辺の樹林から入手出来るということです。

サパ近辺のカットカット村のモン族の民家では家の周りにシンビジュームが栽培されて花芽が立ち上がっていました。ホテルに戻ると入口の鉢でシンビジュームが咲いていました。この狭い地域で温度差があるということです。

咲いているので分かったのですが一つは花の形が虎の頭に似ているので虎頭蘭と呼ばれている蘭です。もう一つは別の大型のシンビジュームです。これらは現在世界中で栽培されている大型シンビジュームの祖先に当たるものです。気付いて見るとこの地帯は蘭の宝庫だったのです。蘭は根に共生菌がいます。これ等はなんと担子菌類です。その担子菌類もキノコを形成する仲間なのです。先日蘭の部会で蘭は担子菌類が分解したものを栄養源として生存、成長するように進化したのではないかと発表したばかりです。そう考えると照葉樹林帯は蘭の揺籃の地だった様です。旅行前は焼き畑と水田の方が気になり、蘭と照葉樹林帯が結び付か無かったのですが、現地で気付きました。

サパ近郊のシンチャイ村で見た、藍染は液をアルカリ性にして微生物の力で還元する方法でした。冬に向い醗酵は止めていました。家の外には泥藍の塊がポリプロピレンを編んだ袋に入れられ山積みになっていました。外から持ち込まれた物か? 自分達で作ったものか? 

同じ照葉樹林帯の雲南のぺー族の藍染は琉球藍を使用したものです。トレッキングで見たのもタデ藍では無く琉球藍ですので、昔から自分達で泥藍を作っていたのでしょう。、藍染の販売量増えて出来あいの泥藍を用いるようになったのでしょうか?。

          *

照葉樹林帯で栽培化された物の一つに茶があります。カフェインを植物体に含みます。

一方カフェイン植物としてコーヒーがあります。これらも紫外線の強いエチオピアの高原で選択されたものです。ベトナム高原がコーヒーの栽培の適地なのは納得出来ました。