2015年10月22日木曜日

現代アメリカと東洋医学(その2) :文化としての医療


医療はすぐれて文化的なものだと思うようになったのは最近のことだ。外国に行くようになってずっと気にかかっていたことでもある。津谷教授(東大薬学部)がWHOにいた頃「医学」を定義しようとしたが議論が割れて統一見解が出せなかったと聞いて納得したこともある。
ささやかな経験だが具体例をあげてみよう。

アメリカで大学の同級生だったY氏とあった。昨年、旅行中に急に気分が悪くなり救急車で病院に運ばれた。原因は盲腸のハレツ、すぐ入院して手術となったが 一晩で退院。そのまま旅行を続けたがトラブルはなかったと言う。実は私も同じような経験を数年前にしたが、その時は10日ばかり入院しなければならなかっ た。保険料は十分払ったつもりだが(ふだんは病院に行かないので)これがアメリカならどれほどカネがいるかとゾッとした。ほかには出産のことがある。アメ リカでは分娩のあと即、退院、あるいは翌日。ウシなみだなーとおそれ驚いたものだ。


彼らは病院とは処置をするところ、生活する場所ではないと考えているらしい。日本では1週間はふつう(最近は短くなっているというが)。この入院の長さは (過去の)医学技術の差とも考えられるが、それより病気というものの考え方、つまり文化の違いと考えるべきだろう。それにあわせて長い入院生活という日本 的医療システムができあがってきたことは明らかである。

その結果が保険制度の差となっている。オバマ大統領は(日本をモデルにした)国民皆保険を掲げている。反対が強いのは費用のかかりすぎ、国の負担が膨大になるし、富裕層はすでに自前で保険に入っているのだから余分な金は払えないというのである。

確かに日本の医療費の増大ぶりは、保険制度の存続にかかわる危惧となってあらわれている。そこには、制度のほかに、小さな愁訴でもすぐ病院へという私たち の考えと行動に問題があるのではないだろうか。小さな愁訴は我慢する、あるいは自力で治すというアメリカ人的発想を取り入れてもいいと思う。文化なのだか ら乗り越えるのは大変なのだが、私たちはハードで高価な西洋医学に対してソフトな東洋医療の思想を組み込むことを真剣に考えるべきではないだろうか。
(つづく)


写真:2015年5月@アトランタ
町の小さな ショッピングモールに東洋医のオフィスが現われはじめた

(小山 修三)

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