2015年10月21日水曜日

現代アメリカの東洋医学(その1)


最近のアメリカでの東洋医学の浸透ぶりはめざましいことを5月の旅行でつくづく感じた。サンフランシスコのチャイナタウン、メイン通りはけばけばしく飾ら れた、みやげ物店、レストランなどが並んでいるが、じつは裏通りの方がおもしろかった。地味な八百屋、雑貨屋、理髪店、小食堂に混じって、診療所や(公認 されない医療の)鍼灸、指圧、漢方薬の店があり民族医療、つまり中国医学が根強くはびこっていることがわかった。ところが現在は裏町にも美容伝統医療など のしゃれた店が出ているので驚いた。
サンフランシスコ・チャイナタウンの門
Wikipedia より
https://en.wikipedia.org/wiki/Chinatown,_San_Francisco

変化をもたらせたのが1974年のニクソン大統領の訪中だったと言う。国家として対等に付き合うためには医学も認めなければならないと言うことだったらし い。しかし、西洋医学の壁は高く、一般人の反応は冷たかった。それでも時間とともに教育や資格の制度が整い、受け容れる人も増えて、鍼灸院やマッサージの 店が街角やショッピング・モールに登場するようになっている。
西洋医学の進歩は目覚しい。ただし、専門化がすすみすぎて治療は(正しい表現か思い浮かばないが)悪い部品を取り替えればOKという、車の修理と似てき た。たしかに西洋医学はすごいのだが、手術や新薬の使用などはハードに過ぎる気がする。年とともに感じることだが、足腰の痛み、肩こり、不眠、骨折や風邪 などなど、小さなトラブルがつきまとっている。しかし、これらは西洋医学にはなじまない。むしろ、東洋医学のゆっくり(だましだまし?)なおそうとするほ うが適しているのではないか。


両者の間に横たわるのはカネである。オバマ大統領は国民皆保険をめざしているが、カネがかかりすぎると富裕層に評判が悪い。日本がモデルともいわれている が、モデル側にも問題は多いのである。私はその根底に国民の医寮学に対する考え方の差があると考えている。これまでくすりの記事で何度か述べたように、医 療は「文化の的しばりが」きつい、そのもつれれをどう説き解くか、それが先決問題だと考えている。
(つづく)

(小山 修三)











2015年10月10日土曜日

琳派、ゴッホ、浮世絵


五輪エンブレムがパクリだと脅されて撤回されたが、私は未だ作家がなぜあのように唯々諾々と引き下がったのがよくわからない。そんなことで一人悩んでいた ら、10/10から京都国立博物館で琳派展が行われることを知った。メダマは宗達、光琳、抱一の風神雷神屏風である。解説に、琳派とは実際に存在した集団 ではなく、先人の仕事を慕う画家たちが模写に当たったのだといわれている。たしかに、今日のように簡単にコピペが出来る時代では なかったので、模写は正確にいかない、しかしその誤差が新しい表現を生み、新しい感覚があらわれる。だから私たちは光琳はもちろん、抱一にも感銘 を受けるのである。もう一つ挙げれば浮世絵を模写したゴッホの作品がある(模写の例は枚挙に暇ないのだが)。芸術の世界では人々は模写は常識で、それを繰 り返してきたのである。

そう考えるといわゆる途上国では「海賊版」は普通のことである。市場には電気製品、衣類、ビデオ、CD、アイフォンまで安価な偽ものが山と積まれている。 ベトナムに行った時、バイクの理想はホンダ、だから安い中国製の車に、エ ンブレムをはじめ部品までつけかえて(見掛けだけは)ホンダにしようとしていた。 企業としての利益だけを考えれば困ったことだが、そんなことをする若者の眼はいつかくるホンモノの世界を感じ、楽しんでいるのだとおもった。学ぶ=まね る=まねぶ=学ぶことによってこの社会は進歩してきたといえるのである。
 

(小山 修三)


写真1、2:ゴッホと広重(Wikipediaより)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D#/media/File:Hiroshige_Van_Gogh_1.JPG

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E5%B7%9D%E5%BA%83%E9%87%8D#/media/File:Hiroshige_Van_Gogh_2.JPG




写真3:10月10日より開催されている京都国立博物館の「琳派誕生400年記念 琳派 京(みやこ)を彩る」のちらしより

2015年10月1日木曜日

東西カップめん比較


カップうどんでも関東と関西はだしの色が違うとききました。
福島からお土産に買ってきてもらい比べてみました。だしパウダーは静岡と下関製。色は前者がやや濃い程度で味はあんまり変わらない。
そういえば、最近東京の立ち食いウドンは、だしの色がとみに薄くなり、昔日の真っ黒なヤツがなつかしいです。

(小山 修三)




写真:上が福島、下が関西。サイズはちがうけれど同一ブランドです。

2015年9月20日日曜日

五輪シンボル


五輪エンブレムが撤回されて、やり直しと大騒ぎである。ベルギーのある劇場が「うちのエンブレムのパクリだ、訴えてやる」という抗議をおそれたことが第一 の原因らしい。背後に大金が動いていることもある。作者はいくら貰う予定だったのだろうか。後始末の費用だけでも東京都が1500万円だそうだ。

あれはパクリだったのか?白黒vs色彩の違いがあるし、幾何的に円を分割した構成は意図的にマネたとは思えない。なぜ委員会が撤退をきめたのか、作家が反 論しないのかがふしぎなくらいである。netではギロン百出だが同世代の作家たちの意見は至極まっとうで、むしろ足を引っ張る嫉妬やクレームーによって利 益を得ようとする現代社会の悪弊を感じる。

すでに存るものに刺激を受け何かを作り出すことは歴史をみれば明らかである。絵画や彫刻の例を挙げれば美術館で古典を模写するのは当然の教育手段だった。 衝撃的だったのは1960年代のアメリカのポップ・ア-トである。リキテンシュタインやアンディ・ウオホールたちがコミックやスープの缶詰、マリリン・モ ンローの写真に手を加えた作品を発表した。当初は会社や個人との間に版権についてのトラブルがあったはずだが、いまでは世界の現代アート美術館に高額で買 い上げられ、展示されている。

また、わたしの専攻する美術史や考古学の分野での重要な手段法は、「様式」論である。様式とはある文化に共通してあらわれるものを見つけ、それが時代のモノサシになる。すると縄文時代の文化圏における土器装飾はすべてパクリといえるのである。

(小山修三)

2015年9月15日火曜日

見えない遺物を探す:くすり ~小山センセイの縄文徒然草~

小山センセイの縄文徒然草、今月は「見えない遺物を探す:くすり」です。

http://aomori-jomon.jp/essay/?p=8078




2015年9月14日月曜日

開館120年特別展 白鳳 @奈良国立博物館


久しぶりにいい天気になったので奈良博にいった。美術史に興味があったので飛鳥・奈良には学生時代からよく行っていた。白鳳時代の作品は、飛鳥時代にはま だ外国文化が消化しきれていない感じなのにたいし、ようやく日本的になってきたので好きだった。薬師寺の日光菩薩像、聖観世音菩薩、法隆寺夢違観音などを みた思い出もまじってなつかしかった。

1m未満の小型の仏像が多くならんでいたが、なかに無残に首をもがれた像があった。いつ、なぜ、どのようにしてこうなったのか。最近、ISISやタリバン が中東で古代遺跡を爆破しているニュースが脳裏をよぎる。イスラム教はイコンを否定しているのでそれは分からなくもないのだが日本にもよく似た時代があっ たことを思い出す。キリシタン時代にあったが、とくに幕末から明治の初めの神仏分離では、たくさんの寺が打ちこわされたり焼かれたりしたという(もちろ ん、仏像も)。それにしてもあまりにもひどい、ファナティックにすぎる、人類の歴史は?知恵は?技術は?誇りは?何とかならないものか・・・と、古文化財 保護にながくかかわってきた身には激しい痛みに襲われるのである。

PS:10月24日からは正倉院展です。今年のメダマは紫檀の琵琶。復原した琵琶による演奏会もあるそうです。博物館もユニバーサル化しているのですね、あとはランジャタイ(蘭奢待)のにおいをかぐというのはどうでしょう、織田信長じゃないけれど。
(小山修三)

奈良国立博物館 開館120周年記念特別展 白鳳―花ひらく仏教美術―
のホームページ
http://www.narahaku.go.jp/…/2015…/hakuhou/hakuhou_index.html

2015年9月11日金曜日

おでん


オデンについて不思議に思っていることがある。汁は熱いし匂いもきついしアメリカ発のコンビニにはまったく合わないものだと思っていた。それなのに日本ではしっかり定着してしまった(わたし自身の乏しい経験では、アメリカのコンビニでオデンをみたことがない。)

オデンには基本的に「味噌をぬるもの」と「汁で煮るもの」との2つの系統があるようだ。種ものとしてはトウフ、コンニャク、チクワ、卵などが主となるが、 地方によって特別なものがある。とにかくバラエティー豊かで、全国オデン・マップもつくられている。そんな分布図をみてると考古学者だか民族学者の本性が 湧いてきて地方色を調べたくなり、さらには縄文時代へと思考がとぶ。

囲炉裏でいつも煮立っている大鍋、そのなかに投げ込まれた種もの、それを串でさして食べる。これは箸や受け皿の(少)なかった縄文人にとっては誠にぴった りの食べ物ではあるまいか。ようやく涼しくなったのでそんな妄想にかられるのにちがいない。さー、これから一杯やりに行きましょう。

(小山 修三)